仏像名

 しゃかにょらいりゅうぞう

峰定寺

制作年代

重文

鎌倉時代

釈迦如来立像

様 式

正治元年(1199)

俗称又

は愛称

 

製作材質

木造、玉眼

金泥  

樹 種

 

像 高

50cm

製作者

 

安置場所

本堂

 

開扉期間

 

解 説

寿永四年(1185)、に平氏が壇ノ浦で滅亡すると、頼朝は平氏のために焼かれた東大寺の復興に乗出した。

 建久五年(1194)、鎌倉御家人に造東大寺の事業を割当てたが、峰定寺の金剛力士像造立に関係した、宇都宮朝綱は大仏の脇侍観音像、小山朝政は戒壇院を分担する事になった。

 この様な事情で、朝綱と朝政は南都と関係が深くなり、やがて南都の僧達によって正治元年(1199)、に造られたこの釈迦如来像が、峰定寺に施入される様になったと思われる。

 鎌倉時代の仏像にはよく胎内納入品があるが、この像にも次のような種々の納入品がある。一つは水晶舎利塔で、興福寺光明院の僧覚遍の願文が墨書されている。次は経典と結縁文で、その中に笠置寺貞慶の書いたものもあるし、木の葉に結縁者が書いた珍しい願文もある。

 貞慶や覚遍は釈迦の教えに帰り、戒律を復興する事を熱心に唱えて、南都の教学を再興した人達である。

 それは同じ時代に浄土の教えを広めていた法然が、戒律に寛大であった事に対する抵抗運動でもあった。

 この様な鎌倉仏教を背景にして造られたこの釈迦如来像は、そのリアルなお顔や、衣の裾の蛇行する皺などに、宋の仏像の影響が認められ、奈良仏師慶派の始めた、新様式で造られた像である事が判る。

 この峰定寺には、銘文や文献資料に恵まれた平安末期から、鎌倉初期に渡る八体の仏像が伝わっているので、この頃の仏像彫刻の微妙な変遷をたどる上に、この上ない良い資料になっている。

「京都の仏像」 淡交社 1968年より

 

 峰定寺は久寿元年(1154)、鳥羽法皇の勅願による建立。この像は同寺の宝物館に出陳されている。胎内納入物により正治元年(1199)、に造立され、南都六宗の碵学として有名な解脱房貞慶が造仏に関係した事が判る。

 理知的な冷たい顔、衣の縁を波打たせた手法は宋仏画に良く見るところで、宋の美術の影響を示す好例である。あるいは快慶の作品かとも思われる。

「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より

 

 この像も、東大寺中性院弥勒菩薩立像と同様に宋仏画を手本として、造られたものと思われ、着衣の形式や低く平たい螺髪、衣のへりの波状曲線、手指の長く伸ばした爪などに宋風は更に顕著である。

 その作風も弥勒菩薩像と良く似ていて、同一作家を考える事も可能であろう。像内には木箱入りの水晶舎利塔や経文、陀羅尼、紙と樹葉に記した解脱房貞慶、その他による結縁文が納入され、これらに正治元年(1199)、の年紀があるので、その頃の造立と知られる。

 寄木造、玉眼嵌入。全身黒く煤けているが、もとは金泥塗りで、衣のふちには切箔がおかれている。光背は周縁部が失われている。

「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より

 

 施無畏印・与願印を結んで立つ釈迦如来立像である。螺髪を大粒で低平に刻み、切れ長の眼を持つ引緊まった面貌を示すが、撫で肩で、やや細身の体部にまとう衲衣は、衣褶をにぎやかに刻み、その袖口や胸元、裾端に至るまで、起伏に富む波形の曲線で縁取りするなど、はなはだ特色豊かな像である。

 これは中国宋代の仏画に見られる特色を、そのまま写し取ったものと見てよく、頭髪を除く全身を、光り輝く漆箔仕上げとせず、にぶく光る金泥彩としているのも、宋代仏画のそれに習ったものと言えるであろう。

 本展覧会に出陳されている、東大寺中性院の弥勒菩薩像と共に、鎌倉彫刻における宋風あるいは、宋様式の影響を論ずる際に、必ず引合いに出される著名な作品である。中性院の菩薩像と同様、本像を快慶作品に比定する説もある。

 檜材。頭体を前後二材矧ぎとし、深く内刳りし、割首、玉眼嵌入、これに両肩から袖にかけて各一材矧ぎ着けとし、両足首はそれぞれ、別材で造り像底に差込む構造で、小像ではあるが、本格的な木寄法を用いている。本像で注目されるもう一つの特色は、その像内に籠められていた納入品の数々である。

 それらは、水晶五輪塔(舎利一粒入り、割木の匣に納める。匣の外面に、正治元年十月六日佛舎利奉納、実憲と墨書)一基、貞慶筆解深蜜経および結縁文一通、釈観心蓮阿弥陀仏宝篋印陀羅尼一巻、梵文陀羅尼および種子一巻、帰阿弥陀仏結縁文一通、行守梵字結縁文一紙、仏子証阿弥陀仏結縁文一紙、梵文結縁文一紙などで、別に表裏に結縁文人名、年記などを墨書した木ノ葉6枚が、納められていた。これは仏像の納入品としては、稀有の例である。

 これら納入品は、記されている年記から考えて、いずれも正治元年(1199)、に像内に籠められたもので、その造像に結縁したものは、笠置の解脱房貞慶以下12人の人々であった事も判る。

 つまり本像は正治元年に造像を終わったものと考えてよく、小像ではあるが鎌倉時代初頭の彫刻の諸相を示す、一例として評価される。

「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」より

 

 一方像内からは、造像時のものと認められる納入品が発見されている。まず、解深蜜経に貞慶の名、水晶舎利塔外箱や願文に正治元年の年号が記され、造像の背景を知る手掛かりとなる。

 貞慶に関しては、建久九年(1198)、の笠置寺十三重塔供養に際して、本像と同じ大きさの釈迦如来像を安置していたという興味深い記録もある。樹葉を納入した例には、京都・清凉寺釈迦如来立像や東大寺南大門仁王像がある。

 特に後者は、本像と同様に東大寺大仏殿前の菩提樹(シナノキ)を用いており、貞慶が重源の思想を反映させた事を思わせる。

 本像造立の中心人物のひとりとされるのが施主丹波入道、すなわち貞慶とも関係の深い藤原盛実だ、水晶舎利塔外箱と樹葉の一枚に記名する。

 他にも覚遍などの貞慶関係者や、京都・遺迎院阿弥陀如来立像など、重源関係の造像に結縁した人物も名を残す。本像造立の背景にある、様々な人間関係を秘めた貴重な資料である。

「興福寺国宝展」 東京藝術大学美術館 2004年より

 

 髪際高で約1尺6寸の全身金泥塗の釈迦如来立像。像内には、水晶製五輪塔・同外函、宝篋印陀羅尼経、解深密経、梵文陀羅尼、複数の結縁文、樹葉など多くの納入品があり、その銘文から正治元年(1195)に造立されたことが知られる。また解深密経は貞慶自筆本で、他の納入品には覚遍や観心など貞慶の弟子や周辺人物の名前が見られる。本像の造像背景には、釈迦信仰を鼓吹した貞慶の影響が強く反映されていると見られる。貞慶は本像造立の前年、建久九年(1198)に笠置寺十三重塔の本尊として「皆金色一尺六寸釈迦如来像」を安置しており、(「讃仏乗抄 第八」所収「笠置寺十三重塔供養願文」)、その関係が注目される。また本像の、細かく波打つ衣縁、胸前に見えるやや複雑な構成の着衣形式、指先の爪を長く伸ばす表現は、同時代の宋代仏画から図像が採用された可能性が高く、作者は慶派の有力仏師が想定され、奈良・東大寺中性院の弥勒菩薩立像と同一作者とする説もある。

 一方、像内納入品の樹葉は、「菩提樹」とみなされるシナノキのものである。これは重源が入宋中の栄西に依頼して請来し、大仏殿前に移植した菩提樹から採取されたものの可能性が高い、なぜなら、納入品の銘文にある結縁者の中には、重源と関係の深い阿弥陀名号が複数見られるからである。以上のことから本像の図像のことについても、重源の事跡を記した「南無阿弥陀仏作善集」にある釈迦如来像を作る場合に典拠とした「優填王赤栴檀像第二轉画像」ではないかと推定する説がある。本像は貞慶の釈迦信仰だけではなく、貞慶と密接であった重源との関係を考える上でも重要なものといえよう。

「御遠忌800年記念特別展 解脱上人 貞慶 鎌倉仏教の本流」より

神奈川県立金沢文庫 2012年

 

私 の 想 い

この像は、昭和50年の「特別展 鎌倉時代の彫刻」で東京に来られて、拝見した事になっている。

 上記の記録で判った。そして、今回、平成16年に「興福寺国宝展」でまた、東京にやって来た。

 衣文の刻みに特徴がある。全てがU字に刻まれている。首が無いのは仏像の特徴だが、肩がだらんと下がった威厳の無いお釈迦さまである。

 この像の制作に関係している貞慶は、解脱坊と呼ばれる人で藤原氏出身の一門大学の興福寺大学卒のエリート中のエリート。しかし、異端児的な処が有り、身が落ち着かない。

 当時、釈迦如来信仰の復興機運が有り、その中心に貞慶が居た。貞慶(11551213)は、この像の制作時が40代半ばであり、勢いの盛んな時である。一方、重源(11211206)は、老境に入っているものの、東大寺復興の最終仕上げの段階に来た。南大門の金剛力士像の開眼法要を貞慶に任せる。それだけ重源は貞慶を信頼していたし、今後の仏教界を担う人材と観ていたのである。そして、釈迦復興の気運は、南都の寺に移り、西大寺、唐招提寺に清凉寺式釈迦如来立像が造られるのである。西大寺像が1249年、唐招提寺像が1258年である。西大寺の叡尊(12011290)は、清凉寺式釈迦如来立像1249年製作した時49歳。先輩の高山寺明恵上人(11731232)に紹介された善円・善慶(11971256)に造らせる。善慶は貞慶と同じ興福寺大学卒で52歳の作である。貞慶の弟子の覚澄が母の菩提を弔うため制作した釈迦如来坐像(東大寺指図堂)1225年に造り、明恵が開眼法要をした。この出来映えに惚れ、叡尊に紹介し、大先輩重源に倣って身近に置く愛染明王像1247年に善円に造らす。息子の善春を伴って短期間に清凉寺像を模作したのである。

 更にこの気運は、叡尊の弟子である忍性(12171303)に受け継がれ、東国の関東地方に清凉寺式釈迦如来立像の多くが忍性に依ってもたらされたものである。と言う事は気心の知れた(叡尊、忍性、善円・善慶、善春)善派の流れを汲む仏師に拠るものと考えられる。

 

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