悉達(悉達多)太子とは釈迦の出家前の名で、太子の姿を絵に描く事はあるが、彫像で表わすのは誕生仏を除くとこの像位しか残っていない。古い時代の例として、薬師寺の三重塔の初層に置かれていた釈迦八相の群像中には、太子像があったかも知れない。
しかし、この太子像は単独像として造られた様である。この様な太子像を造る契機になったのは、聖徳太子像であろう。聖徳太子は日本仏教の祖師として、宗派の別無く尊崇され、その彫像もたくさん造られた。
この太子像が髪を美豆良に結った少年の姿に造られているのは、孝養像といわれる形式の聖徳太子像に倣ったからと思われる。
孝養像とは、父用明天皇の病気快復を祈る聖徳太子十六歳の時の姿を写した像である。聖徳太子の絵伝、画像、彫像は、釈迦の一生をテーマにした各種の作品に倣って造られたが、この太子像だけは、逆に聖徳太子像から影響を受けた事が考えられる。
院派に属する京都の仏師院智が、建長四年(1252)、に造った像である。平安時代の和様は影を潜め、服装や衣と袖の端を長く下に垂らすところに、中国宋時代の彫刻の影響が認められる。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
釈迦がまだ、迦毘羅城にあった時代の姿を表わしたもの。像内に銘記があって、建長四年(1252)、大仏師法眼院智の造立と知られる。院智については、他に知られるところがないが、その名前から、院派仏師である事は間違いないであろう。
この像の肉どりには、院範の宝積寺十一面観音像に通じるおおらかさが認められるが、袖や足に掛かる衣の扱いは自由で変化に満ちており、この辺りには慶派の新風が取り入れられている。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
頭髪を美豆良に結い、右手は人差指だけをのばして臂を曲げ、左手は手の平を上にして膝の上に置く。釈迦の俗人であった時の名前、悉達太子とされているが、像形から見て、鎌倉時代に流行した、聖徳太子孝養像が原形にあるのであろう。
胎内文書によって建長四年(1252)、院派仏師の一人院智によって造立された事が知られる。仏師の院智については他に作例が残されていないが、当時三十三間堂の修造に院派仏師の主だった者は殆んど携わっており、あるいは留守をあずかるものであったのであろうか。
少なくとも仁和寺は、法金剛院の例を引くまでもなく、院派仏師とは近い関係にあったから、院智の作であることは無理はないが、この像は服制が唐様の為もあってかどちらかというと保守的な作風を守る院派の仏師としては、かなり思い切って宋風を取り入れているように思える。
つまり面相はやさしく、こまかで神経の行き届いた貴族的な所がある反面どこかに鎌倉時代らしい写実的な強さを漂わせ、著衣の襞の複雑な曲線のひるがえりも顕著である。
院派仏師の作例としてはこうした傾向は十四世紀に入るとはっきりとしてくるが、十三世紀の中頃のこの像のような例は珍しい。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より
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