仏像名

あみだにょらいりゅうぞう

東大寺
制作年代

重文
鎌倉時代

阿弥陀如来立像

様 式

建仁三年(1203)

俗称又は愛称

製作材質

木造、切金文様
金泥

樹 種

像 高

98cm

製作者

快慶作

安置場所

俊乗堂

秘仏

開扉期間

7月7日と12月16日(開山忌) 開扉

解 説

東大寺の東山の諸堂の中に俊乗堂と呼ばれる一堂がある。東大寺の鎌倉復興の恩人、俊乗房重源上人の肖像を安置するための堂である。
 この堂の東北の一遇にある厨子内に納められているのが、この阿弥陀像で、俗に「釘打の弥陀」と呼ばれているのは、南都に留学していた親鸞が、業成って京都に帰る際に、この阿弥陀仏を特に信仰し、持ち帰ろうとしたので、東大寺の僧侶がこれを拒んで、右足の甲に大きな釘を打付けてしまったという伝説があるからである。
 この像の涼しい目元と、小さく引締った口、流れる様な衣文の線、整ったプロポーション、洗練された姿態など、すべて安阿弥様と呼ばれる快慶の典型的な作風を示している像である。
 文献によって、この像は重源を願主として建仁二年(1202)、に造り始め、翌三年にかけて造られたものである事が判り、その開眼供養には解脱房貞慶が導師を努めたと伝えられている。
 更にこの像の足柄に「アン(梵字)阿弥□□」「広岡ニテ 承元二年 九月一日 細金印始」という刻銘があって、この像の截金文様が承元二年(1208)、に施された事が判る・重源本願の像として東大寺内でも大切にされて伝えられたものだけに、その保存も極めて良く、法衣一面の粉溜彩とその上の截金文をはじめ、光背も台座も、その下に着けられている雲形も、すべて当初のままに残されているのは貴重である。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より

 運慶と共に鎌倉時代を代表する仏師として、著名な快慶の代表作の一つで、彼がもっとも得意とした、いわゆる三尺の阿弥陀如来立像の優作である。像の右足枘正面に「アン」の刻銘があり快慶が安阿弥陀仏と名のった時代の作であることが判る。
 快慶は製作の時期によって、「仏師快慶」、「巧匠安阿弥陀仏」、「巧匠法橋快慶」、「巧匠法眼快慶」の名を作品に留めているが、建久三年(1192)から建仁三年(1203)に及ぶ十年間の「巧匠安阿弥陀仏」時代は、快慶が作家として最も充実した時期であり、彼の阿弥陀信仰の師である重源上人関係の造像を、精力的に行なったことが知られる。
 重源は東大寺再興の勧進上人で、念仏を中心に造寺造仏などに結縁して、事業を推進する独特の阿弥陀信仰集団を率いていたが、快慶の三尺阿弥陀像は彼等から来迎阿弥陀の典型として高く評価されたばかりでなく、法然上人の念仏集団からも歓迎されて、後世に至るまで大きな影響を与えて行く。
 快慶が製作した三尺阿弥陀像は、絵画的に整えられた美しい衣文線や穏やかな、形姿による優美な表現に特色があるが、特に安阿弥陀仏時代の作品には、頭髪部を除く表面全体に金泥(金粉を膠で溶いて泥状にしたもの)を塗り、衣の部分には、更に各種の切金文様を表す入念な仕上げが採用されている。
 俊乗堂像にも七宝繋ぎ、四ッ目亀甲、二重斜格子、篭目などの繊細な切金文様が美しく施されており、金泥の柔らかな輝きと切金文様のきらきらとした輝きが、見事に調和している。
 現在、この像は東大寺俊乗堂左脇壇の厨子内に安置されているが、厨子の銘記から以前は東大寺八幡宮の新造屋に祀られていた事が判る。「東大寺雑集」という記録によると、この新造屋の像は重源上人が造像に関係し、建仁二年から三年にかけて製作され、供養導師は貞慶が務めたとされている。
 像はその後高野山道場に移される予定であったが、道場が焼失したため東大寺中門堂に安置され、室町時代に新造屋に納められた事が判り、更に俊乗堂に移された。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より

 重源の臨終仏という伝承がある。現在、重源上人坐像が安置される俊乗堂の脇壇に安置される。像が納められる厨子の銘により、かつて東大寺八幡宮新造屋に安置されていたことがわかる。
「東大寺諸集」によると新造屋の阿弥陀像は、建仁二年(1202)から三年にかけての造像、施主は法橋寛顕、供養導師は貞慶。重源が珍財を投じて結縁し、快慶に造らせたいといい、仏舎利、心経、菩薩種子真言等を納入したと記す。
 建保四年(1216)、寛顕示寂の時、臨終仏として用いられた。その当時の安置場所は不明で、寛顕の遺言によりその後、高野山道場に置かれるはずだったが、道場が焼失したため、仁治四年(1243)東大寺中門堂に安置し、享禄二年(1529)新造屋に移された。
 右足枘に「アン(梵字)」の陰刻がある。アン阿弥陀仏と称した快慶の署名の最初の一字であると見られる。左足枘は針書きで、承元二年(1208)に「細金印」(截金)の装飾をはじめたと記す。彫刻の完成から五年後、重源の歿後である。これから足枘の銘は、台座の枘穴にあわせて枘を削り直した後のものと見られるが、もともと書いてあったものを写したのだろう。
 快慶の作風は、顔は端整、体格は中庸をえて、衣文は平行、同心円状、左右対称等を基本とし、全体に穏やかで上品、鎌倉時代らしい生気に富む。信仰の上で重源の弟子となり、アン阿弥陀仏という阿弥陀仏号を称した。三尺の阿弥陀如来立像をはじめ、多作家で多数の作例が現存する。重源関係の造像が多く、播磨別所(兵庫・浄土寺)、伊賀別所(三重・新大仏寺)、高野別所(和歌山・金剛峰寺に別所の像が残っている)などに多くの作品を残している。快慶にとって造像は作善だったのであり、整斉の美は天上的な美の表現を意図したものと思われる。
 ヒノキ材割矧ぎ造り。耳半ばを通る線で前後に割り矧ぐ。内刳りを施し、納入品を籠めている。表面は、丹の具を塗った上に金泥を塗り、切金を施す。
「特別展 東大寺大仏 天平の至宝」より 東京国立博物館 2010年

私 の 想 い

 昭和50年と平成3年に東京国立博物館に来ている。上品下生の立像の阿弥陀様である。快慶は阿弥陀如来立像をたくさん残している。アメリカのボストン美術館所蔵の弥勒菩薩立像の里帰りを拝観した時に驚いた。金ぴかの弥勒菩薩立像である。
 文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、1200年代に造った像が、昨日今日に造られたように光っている。当然に修復をしているのである。金ぴかを見慣れない私にとっては、違和感を覚えたところであるが、いつでも修理を重ねて、新しいものとして残して往くのも一つの方法である。
 また、制作面では修理や補修に関係する事で、古い技術に触れ、技術の伝承に繋がる事を考えると、古いまま残すばかりが良いとは言えなくなる。
 その面では、古いものを修理して、甦らせるのも博物館辺りの仕事のような気がする。秋篠寺の伎芸天などは、その意味での先駆者である。天平時代の体部に対して、頭部は鎌倉時代に制作した合作である。
「仏像観て歩き2」では、同じ快慶の作である奈良、西方寺の阿弥陀如来立像を拝観して来ている。
「当ホームページの奈良、西方寺をご覧下さい」
 平成22年10月に「東大寺展」として東京国立博物館にこの阿弥陀如来立像が来られ拝観しました。
 右手は脇を締め、肘をL字に折り前に出し、手首を上に返して手の平を正面に向ける。親指で人差指を摘んで上品印である。
 左手は脇を締め、肘をくの字に伸ばし、指先を下に手の平を正面に向けた与願印である。親指で人差指を摘み、こちらも上品印をしている。阿弥陀如来像の印相である上品下生印をしている。阿弥陀九品印でも一番良く見掛ける印相である。手の平に比して指が細く長い綺麗な手をしている。流石快慶作と見惚れてしまう。
 私が快慶作で最初に観るところは、面相が四角いお顔をしているか、していないかである。四角いお顔をしていると、快慶作と納得してしまう。予め快慶作と判って拝観するので、この期待に反することはない。期待通りに言い方を代えると鰓の張ったお顔をしている。
 これからは三尺阿弥陀像での快慶作の特徴を、一言で言い表す私なりの方法を探し出したいと思っています。そのためには、三尺阿弥陀像をもっともっと拝観しなければならない。


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