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仏像名で寺を探す
仏像観て歩き 神奈川編

名  称

ふりがな

ほうじょうぼう

宝城坊

俗称又は愛称

日向薬師ともいう

神奈川県伊勢原市日向

最寄駅

小田急線
伊勢原駅

開  祖

沿  革

 この寺は元正天皇の霊亀二年(716)二月行基菩薩が開創したと伝えられ、霊山寺と呼ばれておりましたが、後に宝城坊と呼ばれるようになりました。今では日向薬師と呼称され、世に広く知られ親しまれています。
 本尊は行基菩薩が四十二歳のとき一刀三礼のもとに彫り安置されました薬師如来であります。開創以来歴代天皇の御帰依深く元正天皇は、詔(ミコトノリ)して堂宇を造営なされ勅願寺とされました。
 天暦六年(952)二月村上天皇は口経二尺一寸梵鐘を寄進され、後一条天皇(第六十六代)は勅額を下賜されました。近衛天皇(第七十六代)は仁平三年(1153)二月五日院宣を以て口経二尺五寸の梵鐘に改鋳され、光明天皇は暦応三年十二月五日大和権守物部光連に命じて口経二尺六寸の梵鐘を鋳造させ現存しています。後円融天皇(第100代)には康歴二年九月三河遠江両国の棟別銭を以て、堂宇を修造するようおことばを給わりました。
 鎌倉期にはいっては将軍頼朝自ら参詣し、室政子に至っては数回参詣しています。即ち建久三年(1192)政子安産祈願のため、建久五年(1195)頼朝参詣、建暦元年(1211)には政子並びに、実朝室参詣、貞治三年には鎌倉管領足利基氏錦幟を献納し、小田原北条氏六十貫三百文の地を寄進しました。
 徳川家より六十石寄進の朱印を賜うなどのことがありました。現在の堂宇は、万治三年(1660)徳川氏の助力を得て再建、元禄二年(1688)大修補し、その後延享二年(1744)修理を加えて今日に至っています。
 本尊の開扉は十二年に一度、「トラ年」に開く習わしを以っていますが、今日では正月三ヶ日、初薬師一月八日、四月十五日大法会には開扉して拝観していただいております。
「日向薬師 宝城坊の解説」より

私 の 想 い

 「仏像観て歩き」の勉強会を始めて、住んでいる近場の寺を調べている。その中で宝城坊があった。この寺に鎌倉時代の仏像で薬師如来一家のオールキャストが存在するのを知った。
 1月8日がご開帳日と聞いて、「仏像観て歩き」で拝観することにした。主催者が行っていないのでは話にならない。下調べのつもりで出掛けた。朝8時に家を出発した。
 三田線で春日駅まで行き、大江戸線に乗り換えて新宿西口駅まで行って、小田急線の新宿駅まで歩いた。9時には着いてしまい10時まで時間を潰さなければならない。
「仏像観て歩き」では、小田急線の小田原方面行き先頭車両ホームに午前10時集合にしてある。小田急デパートの二階の喫茶室で時間を潰す。
 今日は日曜日だが、8日は平日である。時刻表を見ると、休日と平日の時間は多少違うが、問題にするほどでもない。10時11分の箱根湯本行きに乗った。始発で座ることができた。伊勢原駅には11時10分に着いた。ちょうど一時間である。
 伊勢原駅の北口から日向薬師行きのバスで行く。11時35分発であった。乗客は日曜にも関わらず5、6名である。しかし、走るに従って降りて行く。結局終点には私ともう一人の2名であった。その方は参詣者と違って地元の人のようであった。参詣者が一人でもいればその人に着いて行けばと考えていた。ところが誰も参詣者がいないので、あてづっぽうに更に上に登って行くことにした。
 道端の高い石垣に、右折で日向薬師の看板があった。あてずっぽうも間違いなかったと安心する。それでも15分と書いてある。徒歩で15分なのか、車で15分なのか。車で15分ならば徒歩では30分、いや小一時間は覚悟しなければなるまい。そう思ったらゆっくりと行けばいいと覚悟する。何台か車が通り過ぎて行く。
 左側に駐車場が見える。3、4台しか止まっていない。「日向薬師」の看板が見えるが右側の谷側方向に矢印が付いているので、車道を登って来たことを知ったのである。
 道端で地元産のみかんが売られている。野菜なども並べている。車道から寺の方に降りて行く。12時30分に到着した。
 車道から入口の門柱を通って、紅葉のトンネルをくぐって下に降りて行く。宝物殿横の広場に出る。この寺は参詣者だけでなくハイキングの途中で寄って行く人々も多い。その人達がお昼休みをしていた。
「仏像観て歩き」では、弁当持参のこととしていながら、今回の私は持参していない。ここまでの間で食堂らしき店もなかった。広場の売店でも弁当は売っていないようだ。
 売店で甘酒と、たまたまここで売っていた埼玉深谷産のネギセンベイで、腹ごしらいをして本堂に行った。
  本堂にお参りした後に宝物館に行った。目的にしていた仏像は、本尊の鉈彫り薬師三尊以外は、全て拝観することができた。メモをすることを管理員さんに了解を得て、阿弥陀さんから順に記録を始めた。
 鉈彫りでない薬師三尊と日光、月光菩薩、四天王、十二神将の22躯の記録を採って終了したのが、三時半を過ぎていた。本尊の薬師三尊は、1月8日のご開帳の時の楽しみにしておこう。
 記録を採って判ったことは、十二神将で兜を着けているのが、四躯で髻が八躯である。そのことを管理員さんにいうと、
「そうでしたか」
と、いう。身近にいてもそこまでは、気がつかないのかも知れない。どんな意味が含まれて、いるのかは判らない。後日、調査の対象にして見たい。他の鎌倉時代の十二神将を調べて見ようと思います。十二神将に方位や干支が着くようになったのは、鎌倉時代以後からと秋篠寺で聞いている。新薬師寺の十二神将には干支のエンブレムは着いていない。

宝城坊画像一覧その1
宝城坊画像一覧その2
宝城坊画像一覧その3
宝城坊画像一覧その4
宝城坊画像一覧その5
宝城坊花華一覧
宝城坊所蔵仏像
薬師如来坐像 日光菩薩立像 月光菩薩立像
阿弥陀如来坐像
薬師如来坐像2 日光菩薩立像2 月光菩薩立像2
持国天立像 増長天立像 広目天立像 多聞天立像
宮毘羅大将立像 伐折羅大将立像 迷企羅大将立像 安底羅大将立像
?爾羅大将立像 珊底羅大将立像 因陀羅大将立像 波夷羅大将立像
摩虎羅大将立像 直達羅大将立像 招朴羅大将立像 毘羯羅大将立像
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