像内から弥勒上生経巻が見出され、その奥書に建久の年紀があるので、建久年間の製作と知れる。肩の後にかかる天衣の一方を肩からずり落ちた様に表わし、天衣や裳のへりを波打たせるなど、変わった趣向が凝らされているが、裳裾の波状曲線は、たとえば京都清浄華院の普悦筆阿弥陀三尊像の様な南宋仏画に見るところで、この様な宋画が手本とされたのであろう。
頬が強く張って、微妙な肉付けのある顔や、引締った長身、動きの大きな両脚の構えなどが、如何にも若々しく。衣の襞を細かく複雑に造った手法に独自の作風がうかがえる。
作者名は判らないが、やはり、慶派に属する個性的な名手の一人と考えられよう。台座の修理銘から、もと興福寺にあったものと知られる。寄木造、玉眼嵌入。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
髻を高く結い、条帛・天衣を懸け、裳を著け、腰を左に捻り、右足を緩めて立つ、通行の菩薩形立像で、左手は屈臂して持物を執る形を示し、右手は垂下して、手の平を前に向ける。
昭和三十年、修理に際して、像内から、棒状に固定した経巻が発見され、その本文末尾と思われる墨書が、弥勒上生経の末尾である事から、本像が弥勒菩薩である事が確かめられ、また経巻奥書と見られる「建久□年□」の朱書も同時に発見され、鎌倉初期の作品として、にわかに著名になった像である。
檜材。頭体部を通じて前後二つの材から木取りし、内刳り割首とし、面部は更に仮面状に割り離して玉眼を嵌入し、頭頂は皿を伏せた様に別材の蓋を当て、これに髻や、両腕を矧ぎつける構造で、頭髪は群青彩、その他は全身漆箔を施している。櫛目の整った髪筋、頬の張りが豊かで、頣の引緊まったキリッとした面貌、また恐らく中国宋代の仏画から学んだと思われる条帛、天衣や裳の縁を細かい波形で縁取りした賑やかな衣褶のさばきなど、微妙な抑揚起伏を鮮やかに刻み出し、総体にプロポーションは良く整い、肉付けも快よく引緊まって潑溂として趣に満ちている。
その姿は、現在ボストン美術館にある、快慶作弥勒菩薩立像(文治五年(1189)、奥書の弥勒上生経納入)、に共通する趣を示すものであり、また衣の波形の縁取りについては、正治元年(1199)、銘の納入品を有する京都峰定寺の釈迦如来立像に良く似通う。
こうした点から、本像を快慶の作品とする説もあるが、技巧的にいえば、快慶作品より更に優れたものといえる。小品ではあるが、鎌倉初頭の優作の一つに数えるべき作品である。像は現在、髻の末端一部、天衣の一部、左手第五、四五指のすべて、右手第一指を除くすべて、裾背面下端、両足枘の大半などを補修している。
光背及び台座はすべて寛永五年(1628)、の補作である。因みに本像は元戒壇院千手堂内に在ったが、昭和初年、中性院に本尊として迎えられたものと伝える。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より
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