勧進所御影堂安置。このお堂は公慶が拠点とした龍松院に宝永四年(1707)、弟子公盛が建てたもの。公慶上人は、貞亨二年(1685)から勧進をはじめ、同三年から六年かけて大仏の修復、元禄五年(1692)大仏開眼供養会を行なった。次いで大仏殿再建に尽くし、江戸幕府の全面的な支援を取り付けて、宝永二年(1705)上棟を済ませたが、この後江戸で病にかかり、58歳で歿した。勧進の拠点だった東大寺龍松院に葬られることを望んだが、公の寺院の境内に埋葬する許可はおりず、五劫院に墓所が営まれた。この像は、弟子で勧進を引き継いだ公盛が発願し、上人の死の翌年龍松院勧進所御影堂に安置された像である。仏師性慶が体部、公慶の弟子即念が顔を造ったという。
鉢が張り、頭頂が尖る形、眉が秀で眼が窪み、頬骨が出て顎が尖る特徴は東大寺龍松院に伝来する画像とも通ずる。弟子即念に顔を造らせたのは、生前の顔に出来る限り似せるためだろう。左眼は充血したように赤くなっている。公慶上人は大仏再興勧進の間の七年、横臥して寝ることなかったと伝える。眼疾を忠実に写したものだろう。
性慶は室町時代以来、奈良で活躍した椿井仏所が寛文十一年(1671)に分裂して大坂の堺に移住したうちの一人。元禄十一年(1698)には東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像を修理している。同じ大阪の椿井仏師である賢慶は享保十一年(1726)ころからはじまった大仏の両脇侍像の造仏に加わっている。
遡って元亀三年(1572)、山田道安の差配による大仏補修の際に原型を造った仏師の名前は知られないが、椿井仏所だった可能性はあるだろう。
「特別展 東大寺大仏 天平の至宝」より 東京国立博物館 2010年
仏都・奈良の活力は、近世のこの傑僧が再生したといってよい。元禄、宝永年間に大仏と大仏殿を復興した造東大寺勧進龍松院公慶(1648〜1705)である。時の天皇は上人号を授け、人々は公慶上人と呼んで崇敬した。
東大寺は戦国末期の戦火で焼かれた。復興は徳川五代将軍の太平の世とはいえ、簡単ではなかった。少年僧のころ雨ざらしの大仏に涙した公慶が幕府から大仏修復とその勧進活動の許しを得たのは、37歳の時、そこから鎌倉時代の重源上人に倣った四半世紀に及ぶ巨大事業が始まった。
まず、銅板張りの仮仏頭を鋳造し直し、元禄五年(1692)に開眼供養、続いて大仏殿再興へ。九州〜奥州間を勧進行脚し、江戸へは18回も通って将軍家を説き伏せ、多大な支援を取り付けた。
公慶の生涯、とくに終焉は劇的だった。大仏殿完成前の宝永二年(1705)7月12日、江戸で客死したのだ。東大寺の史料には「痢を病みて薨ず、時に年五十八」とある。
翻ってその年3月。大仏殿の大屋根を支える大虹梁用の巨松2本が九州・霧島山系で伐採され奈良へ。そして無事に大仏殿の柱上に架けられ、最難関工事をクリアした。翌々閏4月に上棟式、公慶は多数の役人や僧俗を招いて歓喜の大祝宴を張った。
その6月。伊勢神宮を参拝した足で幕府への謝礼のため江戸へ。だが、到着後間もなく物心両面で復興を支えてくれた将軍綱吉の母桂昌院が死去。公慶は悲嘆にくれ身命を奉じて葬送に臨んだ。
直後に今度は自らが赤痢か食中毒かで倒れた。心身の疲労が極まってか、医薬の効なく急逝。遺体は特例で奈良への帰還を許され、夏場の10日間、石灰詰めで奈良へ運ばれた。埋葬の地は大仏殿北方の五劫院。墓地には今も上人の巨大五輪塔が立っている。
公慶上人坐像は死去の翌年に弟子の即念と仏師性慶が造り、新築の公慶堂に安置。こけた頬や充血した目、指を絡めた合掌の手などに苦難を乗り越えた迫真の形相が見える。運慶作とされる国宝重源上人像にも重なる風貌で、出色の近世写実彫刻と言える。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2013.09.28
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