膝裏の墨書銘により嘉禄元年(1225)、仏師善円によって造られ、翌年高山寺で明恵上人により開眼供養された事が知られる。螺髪・眼・唇の他は彩色を施さずに素木のままで、その大きさからいっても、平安時代に行なわれた、いわゆる檀像の系統に属するものである。
細微な彫技の中に鎌倉時代風の写実主義が染み透っていて、端麗な面貌も真に愛すべきである。台座も完好な作りになっている。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
像の膝裏に記されている墨書銘と像内納入文書によって、海住山寺の僧覚澄が発願し、仏師善円が嘉禄元年(1225)、の十月十六日に造り始めて十一月二日に造り終わった事、翌年九月に栂尾高山寺で明恵上人が開眼供養したものである事が判る。
小像ではあるが、鎌倉新様を良く消火して堅実な彫技を見せている。仏師善円は承久三年(1221)、の銘のある十一面観音像(奈良国立博物館蔵)を初めとして、宝治元年(1247)、の西大寺愛染明王像ま で足跡をたどる事が出来る仏師で、慶派とは別に、南都にあって一流をなしていたと思われる。
この像の頭、体部は一材で、像底から刳りを施し、左手首、右前膊、両足部を矧ぎ付けている。光背を失うが台座は当初のものである。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
この釈迦如来像の膝裏に墨書銘があり、仏師善円が海住山寺で嘉禄元年十月十六日に造り始め、十一月二日に造り終り、翌二年九月二十二日に栂尾の高山寺で明恵上人が開眼供養を行ったという。
胎内納入の釈迦如来御願文にも、海住山寺十輪院僧覚澄が母のために一尺六寸のこの像を造った事が記される。覚澄は海住山寺の貞慶等の教えを受け、西大寺叡尊に伝えた僧である。
右手施無畏、左手与願印、結跏趺座の小像であるが檀木風の堅い木で、繊細な線を、練達した手法で表わしている。頭部体躯は一材で内刳し、膝などは別材を矧ぐ。植付の螺髪、眉、目、唇のみ彩色し、あとは素地である。
台座も巧緻で、装飾文を彫り出し、小像であるがまとまりのある美作で、運慶、快慶とは別の一派をなして活躍した南都仏師善円の手腕を示している。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より
|