東大寺の開山として有名な良弁上人の像は、東大寺大仏殿の東、二月堂の下の開山堂に安置されている。良弁上人は東大寺建立に当り、政治的手腕を振るい、東奔西走し、後東大寺の初代管長となり、天平宝亀四年(773)、八十五歳で歿した。
この像は、高齢の上人の姿とは考えにくく、むしろ、上人が東大寺造営に活躍していた頃の壮年の姿をかたどったものであろうと思われる。個性的な顔貌や、伏目勝ちな目、額に彫られた三筋の深い皺などは、いかにも実在性が豊かで、空想的な肖像彫刻とは考えられないところから、古くは、その制作年代について天平時代と考えられていたが、造法の特色は平安彫刻に通ずるもので、今日では当代の作と考えられている。
あるいは天平時代の上人像があり、それを平安時代に写したものかも知れない。秘仏として、年に一度開扉されるだけなので、保存は良好である。
「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より
平安後期における本格的な肖像彫刻といえば、何と言っても、奈良東大寺の良弁僧正像を挙げねばならない。言うまでも無く、良弁は東大寺の開山として知られるが、この像は寛仁三年(1019)、頃の作と考えられている。
さすがに平安後期の彫刻らしく、洗練された節度を守る彫風を示すとはいえ、風貌の表現には生気ある写実味が認められ、凝視する目、細長い鼻、引締った顎など、まるで剛毅な良弁その人を、眼前に見るようである。
また、体格もまさに偉丈夫と言うべきたくましさで、その上にまとう衣にも適当な変化ある襞を彫出する。
像主はすでに遠い過去の人であるにも関わらず、あたかもその人の前で写した様なこの像は、すばらしい彫刻家の手になったものと言わねばならない。
私達は平安時代後期の写実像がどの様なものであるかを、この像の系譜は、すでに述べた法華寺維摩・法隆寺道詮からさかのぼって、法隆寺行信・唐招提寺鑑真へと糸をたぐって行けるもので、いわば写実的に習練された奈良の肖像彫刻の伝統を強く感じさせるものである。
「日本の美術 肖像彫刻」 至文堂 1967年
開山堂に安置される東大寺初代別当良弁僧正の肖像彫刻。良弁は持統天皇三年(689)に生まれ、東大寺の前身寺院の主要な一つである金鐘山房に住んだと伝え、新羅僧審祥に華厳教学を学ぶ。「東大寺要録」「華厳別供縁起」によれば、天平十二年(740)金鐘山寺に審祥を招いて華厳経の講義を催している。密教にも関心を持ち、法華堂本尊不空羂索観音菩薩立像は、良弁が安置したものという。
大仏開眼供養会の翌月東大寺別当に就任、天平宝宇五年(761)まで九年間その職にあった。この間、天平勝宝八歳(756)、聖武太上天皇看病の功績により大僧都になった。宝亀四年(773)、八十五歳で歿。
この像は、目尻や頬の皺を陰刻線で表わすなど、描写に生々しさはなく、歿年から時を隔てて、壮年の姿に造ったものである。この時典拠とする画像があったかどうか不明で、少なくとも現存しない。まっすぐ吊り上がる上瞼が鋭い表情を作り、堂々とした体躯とあわせて山林を跋渉した浄行僧という印象を与える。窪んだ眼嵩に自然なふくらみのある眼球、目立たないが骨太な肋骨の表現などには人間の体に対する的確な観察眼を感じさせる。体の中心部分は目の詰んだ針葉樹の一材で左肩から右肩下がりまでを造り、木心は左後方に外す。内刳りはなく、像底は平鑿で削った痕がある。彩色は良く残り、袈裟は条葉を朱、田相部は白群地に墨と白緑で遠山文を描き、刺子を墨の点で表わす。
制作年代は「東大寺要録」の記録により、開山御影堂で御忌日が行われた最初である寛仁三年(1019)と見る説、一木造の構造と鎬立つた鋭い衣文の彫りから、九世紀と見る説がある。一木造りで長和二年(1013)頃の作と見られる興福寺薬師如来坐像と比較すると、眼球の盛り上がりの強さ、脚部の厚み、人中、唇、衣文の鎬の鋭さなどいずれも良弁僧正像の方が強い。薬師像は古様ながら当時一般的だった穏やかさへの志向が見られる。単純な比較はできないが、同じ奈良の作でありながらその差は大きいので、良弁僧正の制作年代を九世紀に置くのが妥当であると思われる。
右手に持つ如意も正倉院に伝わるものに似て古様で、竹節状の柄の先に象が表わされ、先端はその鼻が伸びたものという意匠になっている。良弁所用という伝承がある。
「特別展 東大寺大仏 天平の至宝」より 東京国立博物館 2010年
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