仏像名 |
そうぎょうはちまんしんざぞう |
東大寺 制作年代 |
国宝 鎌倉時代 |
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僧形八幡神坐像 |
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様 式 |
建仁元年(1201) |
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俗称又 は愛称 |
製作材質 |
木造 彩色 |
樹 種 |
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像 高 |
87cm |
製作者 |
快慶作 |
安置場所 |
勧進所八幡 |
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秘仏 |
開扉期間 |
10月5日 開扉 |
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解 説 |
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明治初年の神仏分離が行なわれる迄、東大寺の鎮守、手向山八幡宮のご神体であった。重源上人の命により、東大寺再興事業の一つとして、建仁元年(1201)、快慶が造ったものである。 東大寺鎮守八幡宮の神体であった。八幡宮も治承の兵火に焼け、重源により再興された。重源は鳥羽勝光明院にあった八幡大菩薩画像を賜わる事を奉請したが、果されず、画像を写して本像を造立したのである。 像内には、建仁元年(1201)、に開眼した事、「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」が小仏師二十数人と共に造立した事、それと多数の結縁者名が満面に記されている。写実的手法に快慶独特の形式的整頓が加えられ、親しみ易い姿のうちにも神威が表現されている。 「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より 明治初年の神仏分離の行われるまでは、東大寺の鎮守神である手向山八幡宮の御神体とされていた像である。像の胎内一面に長文の銘が記されているが、それによると、建仁元年(1201)、重源上人の命により東大寺再興事業の一つとして開眼されたものであり、この造立には「巧匠阿弥陀仏快慶」が28人の小仏師を率いて、これに当たった事が知られ、この神像が土御門天皇をはじめ、後鳥羽院、七条女院(殖子)、八条女院(ワ子)、仁和寺の守覚法親王や東大寺別当弁暁を主な願主として造られた事が知られる。 聖武天皇が大仏造像を発願したのは天平15年(743)で、信楽の甲賀寺で造りはじめられた。発願の詔で聖武天皇は、自分が持つ富と権勢を注ぎ、国中の銅を尽くしても完成させると誓った。しかし、その事業は困難を極め、成功を疑う人が多くいたのである。造像を思い立ってから発願までに三年という時間が流れたというが、それも難事業であることが容易に予想できたためであろう。事業を始められずにいる間、事業を促したのが八幡神であった。八幡神は天地の神をいざなって大仏造立を必ず成就させると約束した。事業は東大寺に移り、三ヵ年に亘って八度の鋳継ぎを経て鋳造が終わったのは天平勝宝元年(749)十月のことであった。その年の十一月十九日に八幡神は託宣して豊前国の宇佐から平城京に向かい、十二月二十七日に孝謙天皇、聖武太上天皇、皇太后とともに東大寺に参拝した。そのときに八幡神の大仏造立への協力の申し出があったという話が紹介されたのである。 |
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私 の 想 い |
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昭和50年に東京国立博物館に来ている。右手は肘をXの字に曲げて前で錫杖をぺン持ちする。 肘をV字に折り錫杖を立てて持つ。親指と人差指で箸を持つように握る。小指を立てて、品を着ける。左手は左ふくらはぎの上に抱えるように手の平を内側にして置く。親指と人差指で輪を作り、右手と同様に小指を立てている。指の形は左右で同じ形である。 |
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