右足枘に「巧匠法橋快慶」の銘があり快慶が法橋位にあった元久・承元頃(1204〜1210)に造られた事が判る。尾を長く引いた白雲上の蓮座を白く塗り、蓮弁には緑青と金線を点ずる。
その上に乗る像の肉身、袈裟の彩色や截金も綺麗に残っている。相好や衣文は極めて美しく整えられており、形式化に過ぎた、うらみはあるが、いかにも快慶らしい作品である。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
像の足枘に「巧匠法橋快慶」の刻銘がある。建仁三年(1203)、の東大寺総供養で法橋となった快慶の、承元二年(1298)、から同四年までの間に至る法橋時代の唯一の遺作である。
神経質なほど几帳面に彫られた秀麗な面相と見事な形の整いに、親しみ易いいわゆる安阿弥様の完成が示されている。寄木造、彫眼の像で、切金文様を交えた美しい彩色が良く残っている。白色の湧雲上の蓮華座に乗っているが、雲は後補である。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
像の右枘に「巧匠法橋快慶」という刻銘があって、法橋時代の快慶の作である事が判る。快慶が法橋となったのは建仁三年(1203)、の東大寺総供養の際によるものであり、法眼位に昇ったのは承元二年(1208)、から承元四年(1210)、までの間と考えられるので、その間の造像であり、彼の法橋時代の唯一の遺品である。
彼はこの法橋時代に、いわゆる安阿弥様と呼ばれる独特の作風を造り上げたと見られているが、神経質なまでに整った理知的な顔と流れる様な美しい曲線を描き出した衣文線を持つこの像は、確かに、誰にも愛され、親しまれる安阿弥様の一つの完成を示していると言えよう。
像の肉身、袈裟の彩色や截金も綺麗に残されているが、この像で目立つのは台座で、長く尾を引いて湧き上る様な白い雲の上にやはり純白の蓮華座を置き、連弁には緑青と金線で彩りを加えている。すべての点で、一分の隙もない程に整えられた、いかにも快慶らしい作品だと言えよう。
「特別展 鎌倉時代の彫刻」 東京国立博物館 1975年より
現在、公慶堂に安置するが近世以前の伝承は不明。足枘に「巧匠法橋快慶」という陰刻銘があり、快慶が法橋位にあった時期、すなわち建仁三年(1203)以降、承元二年(1208)から四年の間法眼に昇る以前の作とわかる。法橋叙位は建仁三年十一月、東大寺再興事業の完成を祝う総供養の時である。法橋時代の建永元年に重源が歿している。
快慶はこれより以前、建久五年(1194)東大寺中門二天の多聞天造仏の功績で法橋に叙せられるところを運慶の子康弁に譲った。運慶はこの時さらに上の法眼になっている。この差は、運慶が慶派の嫡流であったのに対し、快慶が傍流だったためだろう。
快慶は多作家であるが、法橋時代の像はこの像のほかには一躯しか知られていない。制作した数が減ったのか、あるいはどこかで大規模な造像を行ったか、事情は不明だが、重源の死が快慶の転機となったことは考えられる。
この像の美麗な姿は比類がなく、快慶の代表作といってよい。着衣の彩色の上に全面に切金模様を施す。着衣に刻まれた衣文が浅く、同心円状に反復するので、彩色や切金模様が目立って、絵画的な美しさも見られるのが快慶の像の特色である。
光背は亡失、台座の雲は後補。雲の表現は来迎を示すもので、春日大社第三殿に祀られた天児屋根命の本地仏の信仰と結びついて生まれたものと考えられる。これより後、法眼時代に弟子行快と造った大阪・藤田美術館の地蔵菩薩立像はこの像とよく似ており、台座の雲が造像当初のものが残っているので参考になる。
「特別展 東大寺大仏 天平の至宝」より 東京国立博物館 2010年
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