仏像名 |
ふりがな だいひぼさつざぞう |
唐招提寺制作年代 |
重文 |
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大悲菩薩坐像(覚盛上人) |
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様 式 |
応永二年(1395) |
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俗称又は愛称 |
製作材質 |
木造、玉眼 |
樹 種 |
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像 高 |
87cm |
製作者 |
成慶作 |
安置場所 |
新宝蔵 |
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秘仏 |
開扉期間 |
3/21〜5/19 9/15〜11/3 公開される。 |
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解 説 |
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唐招提寺の中興・覚盛上人(1194〜1249)は、鑑真和上が唐から伝えた戒律を、鎌倉時代に復興した律僧として知られる。この肖像は戒律堅固の上人らしい威容を遷化の百数十年後によみがえらせた木彫像である。 あごの張った角顔に厚い唇、長く垂れた眉に見開いたつり目・・・。なで肩の重厚な体格は武家が台頭した中世にふさわしい姿といえよう。覚盛が尊崇した鑑真の乾漆像(国宝)の静穏さに比べると対照的な風貌で、一説には百年以上前造られた奈良西大寺の興正菩薩叡尊像(重文)に倣った祖師像ともいわれる。 像内墨書には応永二年(1395)に唐招提寺大仏師の肩書を持つ奈良仏師成慶が造ったとある。「康慶法眼之流南都興福寺住」と成慶が興福寺在住の慶派系仏師だったことも記されている。 覚盛は初め興福寺に入り、十代後半に解脱房貞慶から律学などを学んだ。やがて南都四律匠と称されるようになり、後年は戒律の本拠・唐招提寺に定住した。門下からは東大寺戒壇院の円照や唐招提寺の証玄、生駒山の竹林寺の良遍ら俊秀が輩出。南都教学の再興で叡尊や忍性らと志をともにした。入滅の約80年後に大悲菩薩の称号を賜った。 名高い足跡は自誓受戒。正式な僧の比丘は、出家者の守るべき生活規範「戒」を三師七証と呼ばれる師僧によって授からねばならない。だが鎌倉前期には三師七証の適格者がいなかった。 そこで覚盛や叡尊ら南都の僧4人は1236年に東大寺法華堂で自誓による師僧不在の受戒式を断行。この英断は賛否の大反響を呼ぶとともに南都の再生活動を加速させる推進エンジンにもなった。 唐招提寺は毎年5月19日の覚盛の命日に中興忌梵網会を営む。午後には境内の鼓楼(国宝)から特製の宝扇を投げ配る団扇撒き行事もある。 宝扇は奈良法華寺の尼僧が蚊に刺されても払わなかった上人を追慕して供えたというハート形の飾りうちわ。この行事は、戒律の根本寺院である律宗総本山唐招提寺にひとときの華やぎをもたらす。当日は上人像も開扉される。 「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2013・5・4 |
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私 の 想 い |
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飄々とした感じがよく出ている。大悲さんはどんな方なのか、勉強不足で存じません。しかし、この方の前に来ると、ほっとする。安らぎなのだろう。張り詰めてばかりでも人間生きられない。 |
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特殊名称の観音菩薩像 |
菩薩のなった人の肖像彫刻 |