木心を像後方に外した心去りの一材から、像の大容と台座蓮肉、さらに葺軸下の心棒まで含んで彫成された一木造の像で、内刳りは全く行わない。
肉身・着衣とも丹青彩色の痕が見られないところから、もともと檀像として造立されたものと思われるが、さらに現状では像面のところどころに淡褐色の顔料が残っており、当初は上質白檀材の木質の色に、なぞえた彩色法が行われていた可能性が考えられる。
頭体とも著しく量感に富んだ力強い表現が示され、加えて衣文の構成は体躯の隆まりを強調するように下半身までは両脚間に集中して刻出されている。こうした抑揚のはっきりした造形は、八世紀後半の中国中唐期の彫像様式の影響を受けて、天平時代後期の木彫像のうちに展開し、やがて平安時代初期檀像の表現に連なっている。
また葺軸下の心棒まで共彫する技法や五尺五寸の像高など、神護寺本尊の薬師檀像にそのまま受け継がれているのが注目される。
「鑑真和上像 里帰り20周年展」 1999年より
唐招提寺には奈良時代に遡る木彫像が多数伝来し、それらはかつて講堂に安置されていたが、現在は新宝蔵に移安されている。この像は、その中でも、伝衆宝王菩薩像、伝獅子吼菩薩像とともに鑑真(688〜763)との密接な結びつきを感じさせる。
頬が張り出し顎を前に出した顔の輪郭、口端に窪みをつけた引き締まった表情など、異国的な雰囲気を漂わせ、同時期の日本の仏像とは異質である。遠方を見つめるような表情や胸を張って直立した姿は堂々としており、大陸的な気宇の雄大さを感じさせる。
頭部から台座の蓮肉、さらにその下方部(葺軸、束、心棒)までカヤの一木から彫出し、内刳りは施さない。木心は像の後方に外してあり、現状の像の最大幅は55cmであるので、原木の直径は優に1mを超えるかなりの大材であったと言える。
一木の材から何ら迷う事なく像を彫出し、しかも柔軟な肉体、身体に密着感のある薄い衣の柔らかな質感までも表現し尽した技術は、眼を見張るものがあり、木彫に熟達した仏師の手を感じさせる。
鑑真は六度目にして初めて日本への渡航に成功するが、第二次の渡航の際には、八十五名にのぼる工人を、伴っていたことが知られ、「玉作人」「画師」のほか、「彫檀」「刻婁」といういかにも彫刻家を思わせる工人が、含まれていたことは注目される。
実際に来朝した際にも、こうした工人(以下、仏像制作に携わる工人を中国、日本とも仏師と表記する)を伴っていたことは十分推測され、この像も鑑真とともに来朝した中国の仏師によって造立されたとみるのが妥当だろう。
制作時期は、鑑真在世中であると考えられるが、近年、光明皇后(701〜760)の重病に際して天平宝字二年(758)に行われた千手千眼経、新羂索経、薬師経の大規模な写経事業と結びつける説が 出されている。
「仏像 一木にこめられた祈り」展 東京国立博物館 2006年より
唐招提寺の仏像といえば、盧舎那仏など金堂の諸尊と、肖像彫刻の傑作鑑真和上像がもっぱら注目され、多数の木彫像が安置されている新宝蔵まで足を延ばす人は少ない。木彫像は奈良時代にはあまり造られず、平安時代以後、一挙に開花する。その先駆をなしたのが新宝蔵の木彫像だ。見逃せない場所である。
新宝蔵は鉄筋コンクリートの収蔵庫。中に入ると、豊かなボリュームの、迫力に満ちた木彫像が並んでいる。初めて見た時は「これは天平仏なのだろうか」と戸惑った。
その典型が薬師如来立像。肩が張って胸が厚い。腰と大腿部が異常に太い。均整のとれた奈良時代の仏像にしては異例だ。衣文の力強い線が目をひく。腹部では波のように平行な曲線を描き、股間に至るとU字形になって、ひざ下まで深く垂れる。この下向きの動きは衣の下端の横向き三重の波形で打ち消される。肩から足に至る衣文線は構成が巧みで、ダイナミックだ。
太ももの表面だけ平滑に彫られている。彩色されていないので年輪が浮き上がり、素木の清浄感が伝わってくる。
像高165cm。頭から足までと台座のほとんどをカヤの一材から彫り出している。従来はヒノキとされていたが、近年の調査でカヤと判明した。カヤの一木造りは平安時代前期(8世紀末〜9世紀)に盛んになる。問題は、この像が奈良時代後期、鑑真最晩年の760年前後に造立されたと考えられることだ。
奈良時代の仏像は金銅像、塑像、乾漆像が中心だった。飛鳥時代は木彫像も多いが、ほとんどがクスノキだった。ヒノキが仏像の中心になるのは寄せ木造りが完成する11世紀以後のこと。なぜ奈良時代後期にカヤの一木造りが突然現れ、平安時代前期に盛行したのか。日本の仏像史の重要なテーマになっている。
有力な見方は753年、5度の渡海失敗の末に来日した鑑真の同行者の中に造像の工人がいて、唐の進んだ木彫技法を伝えたという説だ。新宝蔵には平安前期を含め、カヤの一木造りの仏像が多い。鑑真は日本の仏像彫刻にも偉大な足跡を残したのである。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2013・7・6
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