目頭に蒙古襞を刻み、眉間を寄せ気味に遠くを見つめる両眼はもとより、張り切った頬と強く引き締めた口元が、本像の顔立ちに独特の厳しさを与える。
そして、背筋を真直ぐに伸ばして立つ体躯は、やや肩幅が広目ながらも太からず細からず、バランス良くまとめられる。また正面の衣文の折畳みなど、彫刻面に直角に、刻み込まれたノミさばきは鮮やかで、像の静かなたたずまいに、峻烈ともいえる緊迫感を漲らせる。
このほか、臂釧や腰の石帯の緻密な彫技に加え、冠帯や天衣の垂下部など、像身から離れた部分も、出来るだけ一木(材は非常に細かな目の詰んだ良質の檜)で彫成しようとする意識は、当寺、中国で盛んに造られた壇像のそれを思わせる。
また、額に縦に表された一眼や腕の付け根の痕跡から知られる六臂の形相は、本像が雑密と呼ばれる初期密教の、特異な尊格である事を示している。
加えて条帛(じょうはく)の替りに鹿皮をまとう姿は、不空羂索観音のそれに最も近いが、関係経典に三目六臂の不空羂索は見えず、それが特殊な信仰に関わることをうかがわせる。
このような異相と関連して、鑑真の孫弟子に当たる豊安の著になる「鑑真和上三異事」と、平安後期の「七大寺巡礼私記」の記事が注目される。
前者は鑑真和上が揚州大明寺にあって律を講じたとき、三目六臂の般若仙と自称する菩薩が出現したと記し、後者は和上が大唐大福光寺で説法した際、自ら三目六臂の不空羂索観音の像を現じたというものである。
これら本像と密接に結びつくと、思われる奇瑞譚は、鑑真の講律の活動にある種の「瑞像」が不可欠であったことを物語る。また尊名についても先の「七大寺巡礼私記」には、羂索堂に不空羂索観音とが、存在したと記されており、この商伽羅王が大自在天すなわち不空羂索観音と、同軌の尊格である事とも合わせて、種々の異説を生んだとも想像に難くない。
いずれにせよ、鑑真がもたらした戒律は、盧舎那仏を教主と仰ぐ大乗的な梵網戒に、小乗の瑜伽戒を加味するという、特殊なものであったと指摘されている。よってここでは、究極的には盧舎那仏の三千大千世界への到達を求めつつも、差し当たって菩薩の悟りを目指す戒律修行の過程では、菩薩の最上位(十地という)にある大自在天、すなわち不空羂索観音が直接の教主となり得たわけで、その本尊として同じく唐招提寺に現存する三目四臂の伝獅子吼菩薩像(こちらの方が不空羂索観音の経軌に当てはまる)や本像が、天平宝宇三〜四年(763〜764)の本寺創建時にいち早く造立された蓋然性も高い。
本像の造立には、このような鑑真の戒律の根本に関わる重要な思想背景が認められ、その作者は、先の檀像との密接なつながりも含めて、和上に随行した唐工人、ないしはその直接的指導下にあった人物が想定されよう。
なお、香川・正花寺には本像をモデルとするかのような、聖観音立像が遺存しており、本像をはじめとする唐招提寺初期木彫群の、影響力の大きさをうかがわせる。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より
額の中央縦にもう一つ眼を表わし、現状は手が二本であるが、左右にもう二本ずつ腕を取り付けていた痕跡があり、三つの眼と六本の腕をもつ、いわゆる三目六臂の姿で造られた像である。
眼をやや細めて遠方を見つめるような表情、頬が張り出し顎を前に出した顔立ち、堂々とした体躯の表現、像の大半を台座の一部を含めてカヤの一木から彫出することなど、作風、技法ともに伝薬師如来像と共通する。
豊かな髪を掻き上げて、頭上で結い上げた髻の髪束には質感が十分に表現され、後頭部の髪際をごく浅く表わしている点にも、髪を上方に強く掻き上げた感覚が示されている。また、両耳の前に、先端をうねらせながら垂れる鬢髪の表現も巧みである。
両肩に見える帯状のものは、両耳上方の宝冠から垂れていた冠(かんぞう)の一部で、本来本体の材と共木で彫出したとみられる。天衣は遊離部も含めて、本体の材と共木であり、現在、正面両脚間をU字形に上下二段に垂れる天衣の中央部が欠失しているものの、両脚中央の裙の打ち合わせや衣文が連続しているので、天衣と体部の間は透かしていたことが判る。
胸飾は肩口から背面の首周りにのみ矢羽根状の紐二乗(中央で蝶結びにする)を本体材から彫出するが、正面には表わしていない。しかし、左右の肩口に銅釘が打たれており、本来別製の胸飾を取り付けていたと考えられる。
裙の衣文は左右対称を基調として一見図式的であるが、柔らかな布にわずかな力をかけただけで波打つような感覚がみごとに捉えられている。また、裙の上縁部を締めた石帯の上に、裙の一部がはみ出た表現にも精彩がある。左肩から右脇腹にかけて帯状のものを懸け、正面中央の左胸寄りで結んでいるが、これは単なる布とは違って、弾力のある皮のような質感がうかがえる。これを鹿皮とみて、この像は本来鹿皮をまとうことが経典に説かれている不空羂索観音像として造られたと見る説が有力である。
もっともこの像のような三目六臂の姿の不空羂索観音像は経典には説かれていないが、異形相としてありえたことが指摘されている。
大江親通(おおえのちかみち)(生年不詳〜1151)が保延六年(1140)に南都を巡礼した時の記録をまとめた「七大寺巡礼私記」の唐招提寺の項には、鑑真が唐の大福光寺で自ら三目六臂の不空羂索観音像を出現させたという伝承を載せており、この像と鑑真とは強い結びつきを持っていたことが推測される。
近年では、不空羂索観音像が戒律修行の本尊になる事に着目して、鑑真が重用した「梵網経」には戒律生活に欠かせない受戒と布薩(毎月十五日と三十日に僧が集まり、自己の罪過を反省し懺悔する儀式)において仏・菩薩像の必要性が説かれていることから、この像や伝薬師如来像、伝獅子吼菩薩立像が鑑真の戒律思想を背景に、戒律儀式の仏像として機能したという説がだされている。
「仏像 一木にこめられた祈り」展 東京国立博物館 2006年より
|