この十一面観音像も、天平時代末ごろの、一木彫の遺品の一つである。もとは腰下にも瓔珞を着けていたのであるが、今日では失われている。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
薬師寺には、木彫の十一面観音像が三体あり、本像はその中でも最古のものであるが、伝来に関しては不明である。
桧の一木造りで、両肘先、両足先は別材を矧ぎつけ、背面に、後頭部、肩から腰、腰から裳裾の三ヵ所で打刳りを施し、別材をあてている。
長年の風蝕のためか顔面の損傷がはげしいが、わずかに柔和な表情の輪郭を辿ることができる。頭上面は、菩薩面が六面現存している。細かに彫出された胸飾りや臂釧には、かつて宝石が嵌入されていたようで、もとは華やかな美しさを、具えたものであったのだろう。
天平勝宝五年(753)に、唐僧鑑真が来朝したことに伴って、唐招提寺木彫群に見られるような、塊量感にある造形表現が我が国にもたらされ、八世紀後半から更に次代の平安初期彫刻に対して、大きな影響を与えたといわれている。
本像は、唐招提寺木彫群との関連が指摘されるものの、はちきれんばかりの肉体で見る者を圧する迫力はなく、むしろその造形には穏やかさが感じられ、天平彫刻の伝統を引き継いで製作されたものと思われる。なお、白亳、左耳朶、左臂から手首までの前膊部、右臂より先、両足、台座は後補である。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より
薬師寺には十一面観音の木彫像が三躯伝来しているが、この像はその中で最も古様な像である。両肘より先や両足先が後補で、頭上面を別に造って頭部に取り付けるほかは、頭部および体幹部を針葉樹の一木から彫出する。背面では、後頭部、首下方から腰、腰から裙の裾の三ヶ所で背刳りを施し、その跡を板でふさぐが、この背板も後補である。
腰周りの位置でやや下げ気味につけた裙の形、大腿部の張りを強調し、膝下方にU字形の波形を連ねた衣文表現、髻の正面と左右側面に配された頭上面(現状六面が残る)が下段二面、上段一面の三面一組として構成されていること、下瞼の括りを強調した眼の表現など、奈良・与楽寺の十一面観音菩薩立像と通じる点は注目される。
与楽寺像の制作地については中国か日本かで見解が分かれるが、いずれにしても与楽寺像が唐風を強く伝える檀像であり、この薬師寺像が中国から請来された檀像を意識して造られたことは確かだろう。
また、頂上面に上半身を表わす形式(現在、頭部は欠失する)は、山形・宝積院の十一面観音菩薩像とも共通する。
両肩に重々しく垂れる髪の表現もこの薬師寺像の特色といえるが、天平勝宝四年(752)の奈良・東大寺の大仏開眼会と、ほぼ同時期に制作されたと考えられている大仏殿前の八角灯籠に、表わされた音声菩薩像の髪の表現に一脈通じるように思われる。
本体と共木で彫られた胸飾や臂釧に残る窪みには、宝石が嵌められていた可能性が指摘されている(「奈良六大寺大観」第六巻 長谷川誠解説、岩波書店 1970)ことも含めて、この像は唐風を濃厚に伝える像であるといえる。
この像の伝来は不詳であるが、「七大寺日記」や「七大寺巡礼私記」に見える薬師寺唐院の四天王の檀像に関する記載は注目される。同像は、戒明が入唐した際に、海を渡る途中で盗賊に遭い、その難を逃れるために発願し、帰朝後乗っていた船の梶を、御衣木(みそぎ)にして造立したものという。
戒明は奈良・大安寺の僧で、彼の伝記によると、入唐した際に宝誌和尚の宅を礼拝し、宝誌の十一面観音菩薩真身像を請い得て帰朝したことが知られる。大安寺に木彫の宝誌像が伝えられていたことは注目され、この像とこれらの記事を直接結びつけることはできないが、造立背景に戒明をめぐる動向が反映されている可能性は考慮してもよいだろう。
「仏像 一木にこめられた祈り」展 東京国立博物館 2006年より
頂上面は上半身を見せ、その他の頭上面を入れて十二面をかぞえるタイプの十一面観音像である。体躯はすっきりと伸び、胸をそらして直立し、かつ、大腿部に量感をみせるので、安定よく堂々とした印象を与える。また、留意すべき点として、面長の顔立ちで、表情が明るく笑みをたたえること、細長い耳、両肩に髪をたっぷり垂らしていることなどが挙げられる。これらの表現は、奈良時代末期の作例には少なく、また唐招提寺の木彫群とも異なった感覚を見せることから、唐招提寺像に先んずる要素であると考えることも出来よう。東大寺二月堂本尊の光背に線刻された菩薩像と通じる要素である。
共木から彫り出される胸飾りや腕釧は細やかな彫技が見られ、またこれらの凹みには宝玉類を嵌入していたとも考えられている。さらに密着する裳の表わし方や、衣文線には、金銅仏を思わせるところもあり興味深い。
頭上面と両上膊をふくめてヒノキの一木で造り、背面の三箇所より刳りを施し蓋板を当てる。
「もうひとつの薬師寺展」より 2008年
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