像内納入の願文から、延応二年(1240)に東大寺の僧俊幸が施主となり、仏師善円が造立し、彩色を仏師円慶が担当した事が判る。善円はこの時、四十四歳。
十三世紀半ばに南都の高僧について造像活動に携わった南都仏師である。目鼻立ちが爽やかで、鋭い刀の冴えを表わす技量は優れ、ほかに東大寺指図堂釈迦如来像や西大寺愛染明王像などの作例がある。
本像の表情は、仏師善慶作の西興寺(大和郡山市横田)地蔵菩薩像の顔つきに酷似しており、善円・善慶同一人説(生年が一致する)を補強する意義を持っている。
寄木造、彩色(衣に切金文様)、玉眼。腰をかがめ、上体を前傾させ、右足を踏み出し、雲脚を後方になびかせて乗雲する地蔵菩薩の姿形が、春日曼荼羅の一本に描かれており、本像は春日第三殿(祭神 天児屋根命)の本地仏として造られたかと考えられる。
つまり、中世南都に広まった春日社の本地仏の一つとして、地蔵菩薩に引導されて「春日浄土」に往生するという春日地蔵の信仰である。
「仏教と花」法相宗大本山 薬師寺 2005年より
像内から発見された納入願文により、延応二年東大寺僧俊幸の発願により、諸悪趣に落ちた人々を地蔵菩薩の力で救ってもらうために、四十四歳の大仏師善円が造立し、彩色は円慶が手がけた像であることがわかる。
腰をかがめ、右足を前に出す姿は、正面観ではややぎこちないと感ずるむきもある独特のものである。これは、現在雲座が後補になるとはいえ、当初から雲に乗って来迎する地蔵菩薩の姿を意識した造形であると考えることが出来よう。
面相は目等の輪郭にシャープな切れ味を残し、少し癖のある表情を示す。同様な顔の像として、善慶(善円の改名説あり)作の西大寺釈迦如来立像や西興寺地蔵菩薩像の頭部がある。また、嘉禄元年(1225)善円作の東大寺指図堂の釈迦如来坐像をも、思わせるところもあるが、顔における目鼻の造形が大きくなるなど、作風が変化していることに注意できよう。服制では、胸元に法衣の打合せを見せる点に留意できる。
善円は既に米国ロックフェラー財団の地蔵菩薩立像においてこの服制を採用しており、この種の着衣方の早い例としての意義がある。ヒノキの寄木造で、玉眼をはめ、着衣には彩色と切金文様を施している。
「もうひとつの薬師寺展」より 2008年
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