薬師寺の鎮守八幡神社に、神功皇后像、仲津姫像と伝える二女神像と共に伝わった僧形八幡神像である。三像は、いずれも寛平難関(889〜898)、頃の作と考えられる。この像の衣の刻み方には、翻波式衣文が見え、こうした点も全く当代の仏像彫刻と共通している。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
薬師寺の鎮守八幡宮の社殿に安置されていた三神像の主神たる応神天皇の像で、同社は寛平年中(889〜897)、僧栄昭が建立したと文献に見えるが、その翻波式の彫法や体躯の堂々とした肉取りなどから見てもこれらの像の造立年代が八幡宮の建立と同時のものと考えられ、松尾神社の像と並んで神像彫刻の代表的作品の一つに数えられるものである。一木彫の彩色像で後世の僧形八幡像のような仏教臭もなく、温かみの感じられる像である。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
南門前に位置する休岡八幡神社は、寛平年中(889〜898)に薬師寺別当の栄紹(えいしょう)が、宇佐八幡神を勧請して開創し、薬師寺の鎮守としたといわれる。寺の鎮守として八幡神社を造る例は、東大寺、大安寺などにあり、薬師寺でもそれに倣ったのであろう。
この三像は、その祭神として祀られたもので、主神の僧形八幡神像は応神天皇に、二体の女神像は、母である神功皇后と、天皇の妃の仲津姫命にあてられている。製作年代は、八幡神社の建立された九世紀末頃と見られている。
いずれも、桧の一木造りであるが、八幡神像の左手首先、仲津姫命像の頭頂部と地付には、別材が矧ぎ付けられている。また、三像とも内刳りは施されていない。
奥行のある堂々とした造形は、これらが小像であることを感じさせない。八幡神は、円頂(坊主頭)で袈裟を着けた比丘形(びくぎょう)に造られ、、翻波式を交えた彫りの深い衣文が、力強く表現されている。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より
薬師寺鎮守の休ケ岡八幡宮に祀られていた、一具の神様である。平安時代初め頃になると、八幡神は応神天皇と同体と考えられるようになり、母の神功皇后、皇后の仲津姫命と組み合わされた。薬師寺には寛平年中(889〜898)に、別当栄紹によって勧請されたと伝えられた。休ケ岡というのは、行教が八幡神を宇佐から大安寺に勧請した際に休息した地であるという伝えによる。社殿は、主要堂宇とは旧六条大路を隔てたところにある。
八幡神は髪を剃り、内衣・上衣・袈裟を着けて、地蔵菩薩あるいは僧侶と同じ姿で表わされる。しかし、その表情は、肉色の肌や目や口が顔の中央によった少しこじんまりとしたつくりのため、地蔵菩薩とは違う人間的な雰囲気がある。とはいえ、そこに実在する人間の個性のようなものは認められない。仏よりも人間的であるが、人間ではない超越的な神の姿をよく表わしているといえよう。八幡神が僧形で表わされるのは、八幡大菩薩とも呼ばれるように仏教と極めて深いかかわりがあったためである。
三体は八幡神の左手首先、仲津姫命像の頭頂と裙裾に別材を矧ぐほかは各像とも一材から彫り出される。その三材は、もともと一本の木から取ったとみられていたが、八幡神像と神功皇后像の木目は別の木ようである。
一材から彫り出される構造、八幡神像の丸味のある衣文と鎬のたった衣文を交互に配する翻波式衣文や、厚みのある堂々とした体の表現などは九世紀の仏像彫刻の表現に共通する。
神の像がつくられるようになつたのは、八世紀後半のことと見られるが、、現存するものとしては九世紀半ば頃の東寺八幡三神像や松尾大社三神像が最も古い。それらの像は等身大につくられるが、十世紀以降にはそれよりも小さい像が主流となる。
薬師寺三神像の40センチに満たない大きさは、制作が東寺像などよりも遅れることを示す。また、初期の像は、松尾大社の女神像が若干顔を斜めに向けるが、正面性の強い表現であるのに対して、薬師寺像は、女神像が形膝を立てて姿勢を崩し、八幡神も左膝を少し高くしている。
平安時代後期になると、かなり自由な姿勢の神像が見られるようになるが、薬師寺像の表現はそれらにつらなるものであろう。
以上のようなことからすれば、八幡宮が創建されたという寛平年間は、像の制作年代としても適当な時期と思われる。
「国宝 薬師寺展」より 東京国立博物館 2008年
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