仏像名

ふりがな  じぞうぼさつりゅうぞう

六波羅蜜寺制作年代

重文
平安時代

地蔵菩薩立像

様 式

俗称又
は愛称

髪掛地蔵と言われる。

製作材質

木造、彩色
切金文様

樹 種

像 高

151cm

製作者

定朝作

安置場所

宝物館

開扉期間

解 説

 巨匠定朝の作。元六波羅地蔵堂の本尊で、面相も優しく彩色に切金を混用し、左手に頭髪を持った珍しい仏像で「髪掛地蔵」といわれている。
「六波羅蜜寺」縁起より

 六波羅の地は、平安後期には平家の六波羅の館、鎌倉時代には鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題が、あったところとして名高いが、ここはまた平安時代以来有名な、京都の葬場鳥辺野の入口にあたる。
 その上、寺の直ぐ後ろを流れる鴨川には、飢饉が起きると名もない庶民の死骸が捨てられ、河原にたくさんの白骨が散乱することもあった。この無常の風が吹く地にある六波羅蜜寺に、地蔵信仰が盛んであったのも道理である。
 なぜなら、地蔵菩薩は罪を犯した人が死後行かなければならない地獄の救いの仏であったからである。
 この寺では、平安後期の頃、毎日二十四日に地蔵講が行われて、貴賤を問わず、多数の信者が説法を聞きに集まって来たし、霊験の聞こえ高い地蔵菩薩像が陸奥国から送られて来て、この寺に安置されることもあり、この寺の地蔵信仰は天下に轟き渡っていた。
 このように地蔵信仰が盛んであったこの寺に、現在二体の地蔵菩薩像が伝わっている。そのうちの一体は鬘賭け地蔵と云われる立像の地蔵菩薩で、この像には、次ぎのような霊験談が伝わっている。
 むかし、孤独の女が母に先立たれて途方に呉れている時、一人の僧が現れて母の遺骸を葬ってくれた。
 その後、六波羅蜜寺に詣でて見ると、地蔵菩薩の左手に母の鬘が掛けてあったので、母を葬ってくれた僧が、六波羅蜜寺のこの地蔵菩薩であることを知った。
 地蔵菩薩の霊験談に、端正な小僧が走り回って、地獄の罪人の責苦を救うところがよく物語られているが、この像の姿こそ、端正な小僧と言われる形容にぴったり当てはまると云って良いだろう。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より

 頭部は小さく長身で痩躯。衣文は薬師如来像よりも一層浅く、背面はほとんど刻まないが、正面には翻波式衣文が刻まれる。
 作風は、平等院鳳凰堂の定朝作阿弥陀如来坐像や雲中供養菩薩に通ずる。寄木造であるが、前面材は頭部と体部を通じて造っており、割首しない。こうした特徴から十一世紀前半の作と考えられる。
 「今昔物語」に源国挙が地獄から蘇って、仏師定朝に地蔵菩薩像を造らせた話があり、この像がそれにあたると見られる説もある。台座と光背は後補。
「六波羅密寺の仏像」より 東京国立博物館 2008年

私 の 想

 右手は肘を直角に折って前に出し、手の平を上に向けて、中指と親指で丸を作る形で、人差指と薬指、小指は自然のままで中品である。
 左手は脇を締めて肘を折って前に出し、人差指を伸ばして手の甲を下にした形である。親指、中指、薬指、小指で作った丸で髪を受ける。
 相当の覚悟で髪を切りこのお地蔵さんにお願いしたに違いない。前掛けに地蔵さんの白黒の階段状の紋様が残っている。光背はお釈迦様が八体残っているが左下が欠けていて、全部で十三体あったのだろうか。
「夢見地蔵」さんよりも、少し年長の青年地蔵さんである。賢い弟地蔵のお兄ちゃんであり、負けていない。弟が東大なら、お兄ちゃんは差し詰め京大と言ったところである。
 平成20年7月に東京国立博物館で六波羅蜜寺展がありました。
右手は肘をL字に折り、親指で中指を摘まむ。左手は肘をL字に折り、人差指を伸ばし、中指、薬指、小指で髪の毛を握る。台座は、下に沸き立つ雲を、その上に蓮華台を設える。
 平成21年10月に京都・滋賀「仏像観て歩き」・副題「千手観音と十一面観音を訪ねる」と銘打って「仏像観て歩き研究会」の仲間と訪問しました。
 田相衣の外套を纏って立つ。外回りの布教或は、救済活動に出て、寺への帰路の途中ではないでしょうか。いや、髪を切って仏門に入ろうとしている娘さんの髪を預かって持ち帰る途中なのかも知れない。髪を切ってまで決心した娘さんの願いごとには、このお地蔵さんでなければ、充分な対応が出来ないとされている。それだけに、一層真剣に閻魔様やお釈迦様や時には、薬師様や阿弥陀様にもお願いしなければならない。

地蔵菩薩立像2画像一覧その1
地蔵菩薩立像2画像一覧その2
地蔵菩薩立像2
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地蔵菩薩の考察