巨匠定朝の作。元六波羅地蔵堂の本尊で、面相も優しく彩色に切金を混用し、左手に頭髪を持った珍しい仏像で「髪掛地蔵」といわれている。
「六波羅蜜寺」縁起より
六波羅の地は、平安後期には平家の六波羅の館、鎌倉時代には鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題が、あったところとして名高いが、ここはまた平安時代以来有名な、京都の葬場鳥辺野の入口にあたる。
その上、寺の直ぐ後ろを流れる鴨川には、飢饉が起きると名もない庶民の死骸が捨てられ、河原にたくさんの白骨が散乱することもあった。この無常の風が吹く地にある六波羅蜜寺に、地蔵信仰が盛んであったのも道理である。
なぜなら、地蔵菩薩は罪を犯した人が死後行かなければならない地獄の救いの仏であったからである。
この寺では、平安後期の頃、毎日二十四日に地蔵講が行われて、貴賤を問わず、多数の信者が説法を聞きに集まって来たし、霊験の聞こえ高い地蔵菩薩像が陸奥国から送られて来て、この寺に安置されることもあり、この寺の地蔵信仰は天下に轟き渡っていた。
このように地蔵信仰が盛んであったこの寺に、現在二体の地蔵菩薩像が伝わっている。そのうちの一体は鬘賭け地蔵と云われる立像の地蔵菩薩で、この像には、次ぎのような霊験談が伝わっている。
むかし、孤独の女が母に先立たれて途方に呉れている時、一人の僧が現れて母の遺骸を葬ってくれた。
その後、六波羅蜜寺に詣でて見ると、地蔵菩薩の左手に母の鬘が掛けてあったので、母を葬ってくれた僧が、六波羅蜜寺のこの地蔵菩薩であることを知った。
地蔵菩薩の霊験談に、端正な小僧が走り回って、地獄の罪人の責苦を救うところがよく物語られているが、この像の姿こそ、端正な小僧と言われる形容にぴったり当てはまると云って良いだろう。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
頭部は小さく長身で痩躯。衣文は薬師如来像よりも一層浅く、背面はほとんど刻まないが、正面には翻波式衣文が刻まれる。
作風は、平等院鳳凰堂の定朝作阿弥陀如来坐像や雲中供養菩薩に通ずる。寄木造であるが、前面材は頭部と体部を通じて造っており、割首しない。こうした特徴から十一世紀前半の作と考えられる。
「今昔物語」に源国挙が地獄から蘇って、仏師定朝に地蔵菩薩像を造らせた話があり、この像がそれにあたると見られる説もある。台座と光背は後補。
「六波羅密寺の仏像」より 東京国立博物館 2008年
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