運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を右手に撞木を、左手に鹿の杖を突き、膝をあらわに草履を履き、念仏を称える口から、六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに洗練された写実的彫刻である。
「六波羅蜜寺」縁起より
口の中から六体の小仏が出ているのは、「南無阿弥陀仏」と唱える、念仏の音声を彫刻化したものである。特異な行跡を持つ空也の印象的な風姿をとらえて、その人らしさを直感させようとする。
名を光勝といい、延暦三年(903)、に生まれたが、出身は明らかでない。若い頃から諸国を巡って苦行を積んだ後、天慶元年(938)、には京都に上り、市井の中に住んで、常に南無阿弥陀仏の名号を唱えながら、民衆の教化に努めた。
時の人は、彼を「市の聖」とか、「阿弥陀の聖」と呼んで親しんだ。天暦五年(951)、京都に悪疫が流行した時、それを防ぐため十一面観音・梵天・帝釈天・四天王の諸像を造って祈り、また同時に大般若経六百巻を書写し、応和三年(963)、に供養をとげた。これが西光寺の起こりで、後に六波羅蜜寺となったものである。
天禄三年(972)、に入寂。空也の生涯における活躍の特徴は、民衆と結びつく在野的な色彩の強い事であり、いわゆる聖と呼ばれる仏教布教者の中に数えられる人である。しかも、念仏をすすめて、浄土教を民間に普及した事にも、仏教史上の大きな意義が見出される。
空也の肖像彫刻は、京都六波羅蜜寺に伝存する。仏師康勝(運慶の四男)作が、最も良く知られる。これは特色ある姿の像で、裾の短い衣をまとい、わらじを履き左手に鹿杖をつき、右手に持つ撞木(しゅもく)で、首から掛けた鐘を叩く有様である。
ことに興味深いには、開いた口の中から、六体の小弥陀を出している点で、これは念仏を唱えるところを、可視的に表わしたものに違いない。すでに述べた様に、唐代浄土教の高僧善導の像にも、これと同様な表現が見られるから、空也像の場合も、恐らくそれから学んだのであろう。
それは兎も角として、以上の様な空也像の特殊な形姿は、念仏を唱えながら遊行する様子を捉えたものと解して良い。この像の顔には、あまり個性的なものは表れず、むしろ、印象的な姿全体によって、その人らしさを伝え様としたのであろう。他の空也像も、もっぱら、この様な表現法を取ったものが多い。
「日本の美術 肖像彫刻」 至文堂 1967年より
空也上人は延喜三年(903)、に生まれたが、出身がはっきりせず、皇室の出であるとも云われている。叡山に登って受戒し、光勝といった事もあるが、天禄三年(972)、七十歳で入滅するまで、彼の一生はほとんど教団から離れて民間の布教者として行動した。
特に京都では南無阿弥陀仏の六字名号(みょうごう)を唱えて民衆を教化し、市の聖と云われたという。奈良時代にも私度僧、沙弥、優婆塞(ゆうばそく)などと呼ばれた民間の布教者、いわゆる聖がいて、学問的な官寺の仏教と対立していたが、その伝統は平安時代にも続いていた。
しかし、空也は彼以前の聖と違って、民衆に対して熱心に念仏を勧めた。彼は新しい時代の到来を素早く嗅ぎ分け、浄土教の先駆者となった。ただ空也はまだ恵心僧都(えしんそうず)の様に、人々に対して、このけがれた世を捨て、阿弥陀浄土に往生する事を熱心に勧めた訳ではなかった。
彼が天暦五年(951)、に六波羅蜜寺の前身である西光寺と号しながら、阿弥陀如来像を造らず、十一面かんのん、梵天、帝釈天、四天王の諸像を造ったのも、これらの諸像の呪力によって、流行病の源と信じられていた死霊のたたりをしずめ、人々に現世の利益を得させ様としたからである。
寺地として六波羅の土地が選ばれたのも、ここが葬場である鳥部野の入口で、迷える亡霊のさ迷う土地と考えられたからであろう。
この空也上人像は、草鞋をはき、鹿杖を突く旅姿で、口から針金を出しそこに六体の阿弥陀如来像を立て、六字の名号を唱えているさまを表わしている。頬はこけ、目は半ば瞑目し、口を少し開けて、一心不乱に念仏を唱える。浄土に往生する事を、憧れるよりも、死霊のなす災いを取り除き、社会の平和を願った空也の献身的な表情は、まこと、この様であったと思われる。運慶の子康勝の作である。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
空也上人は六波羅蜜寺の開山で、念仏を唱えながら諸国の民衆を教化して歩いた、鎌倉朝仏教の先駆とも云うべき人。
口から出る六体の化仏は南無阿弥陀仏の六字名号の彫刻化であり、草鞋履きで杖を突き、鉦を打つ姿は民衆と共に生活した上人の生涯を象徴したものである。
その表情には民衆教化の悲願が滲み出ている。運慶の子息康勝の作ったもの。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
この像は、運慶の四男、康勝の作である事が墨書銘によって判る。十世紀に活躍した空也上人が、南無阿弥陀仏を唱えて、町を歩いて居る所をかたどったもの。上人の唱える一句一句が阿弥陀仏になって現れたという。口から出ている小阿弥陀がそれである。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
六波羅蜜寺の創立者である空也上人光勝の像。常に念仏を唱えながら民衆を教化して歩き阿弥陀聖とか市聖とか呼ばれて親しまれた。この像は左手に鹿の角の付いた杖を突き、右手の撞木で胸にかけた鉦鼓を叩き、念仏を唱えながら行脚する姿を表わしたものである。
口の中から出る六体の化仏は、南無阿弥陀仏の六字の名号を意味している。衣が右肩から、ずり落ち、裾に皺を寄せるなど、上人の風姿を、表わすために細かく気が配られている。
日常の行動の姿を描写した点は、この時代の肖像画にも通じるところである。像内に作者名があり、運慶四男康勝の作と知られる。寄木造、玉眼嵌入。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
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