仏像名 |
あいぜんみょうおうざぞう |
西大寺 制作年代 |
重文 鎌倉時代 |
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愛染明王坐像 |
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様 式 |
宝治元年(1247) |
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俗称又 は愛称 |
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製作材質 |
木造 切金文様 彩色、玉眼 |
樹 種 |
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像 高 |
32cm |
製作者 |
善円作 |
安置場所 |
愛染堂 |
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秘仏 |
開扉期間 |
1月成人の日〜2/4 10月下旬〜11月下旬 |
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解 説 |
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胎内納入の文書によって、宝治元年(1247)、西大寺中興の祖叡尊が願主となって、仏師善円が造立した像である事が判る。叡尊が念持仏として秘蔵した事から、その後も長く秘仏として伝えられているので保存は極めて良く、台座光背はもとより彩色切金に至るまで当初のままの姿をよく残している。 小像ながらしっかりした作で、東大寺指図堂釈迦と合わせ、仏師善円は、経歴がはっきりしないが、並々ならぬ技倆の持主だったことを示している。なお弘安四年の元寇に際しては叡尊がこの像を本尊として修法を行なったことが知られている。 「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より 像内に納入されている、造立願文や経文の奥書から、宝治元年(1247)、叡尊が願主となり、仏師善円に造らせた事が判る。 西大寺中興の祖である叡尊が、同寺復興に取り掛かった初期に、三宝興隆の祈願を込めた造像であった。善円は十三世紀前半に、南都の諸寺で活躍し、幾つかの遺作を、残している仏師で、いずれも小品ながら、堅実な彫技を示している。 本像でも鎌倉期の新様を良く消化した。まとまりの良い造型を見る事が出来る。檜材の寄木造、玉眼を嵌入。像は体側で頭、体通して前後に矧ぎ、内刳りする。 秘仏である為保存がよく、華麗な彩色や切金文様。金銅製の装身具、持物、光背、台座に至るまで、よく残っている。 「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より 愛染明王は、空海請来の「金剛峯楼閣一切瑜珈瑜祇経」に説く明王で、人間の愛欲などの欲望すらも仏心に通ずることを教える仏である。 西大寺の愛染堂の秘仏本尊である本像は、五鈷鉤を付けた獅子冠を戴き、宝瓶蓮華座上に結跏趺坐する三目六臂の姿で「瑜祇経」に説く姿とほぼ一致する。 檜材の割矧ぎ造りで、本体の三目および獅子冠の両眼に玉眼を嵌入する。表面は錆地漆塗り白土地彩色を施し、頭髪の毛筋や着衣の文様に切金を用いている。 像底から内刳りした体内部に、木製六角経筒に納めた納入品を籠めていた。このうちの瑜祇経奥書等によって、本像は宝治元年(1247)八月に叡尊が大願主、叡尊の弟子範恩が大檀越となって、仏師善円が造立したことが判明する。 台座は木造彩色、切金文様の華麗なものであるが、光背は後補のものに代っている。叡尊は嘉禎四年(1238)に西大寺に還住してから、正応三年(1290)に没するまで、西大寺の造営・造像と戒律の復興に邁進したが、本像は、その仏像製作の最初の事績として貴重である。 作者善円は近年発見の薬師寺地蔵菩薩像の納入品によって、延応二年(1240)に四十四歳であったことが判り、建久六年(1197)の生まれと知られた。その生年は、やはり叡尊関係の造像事績が知られ、かつては善円の後継者と目されていた善慶のそれと一致し、善円、善慶は同一人物と考えられるに至った。鎌倉初期の運慶様の基礎に立ち、それに几帳面な意匠的整理を加えた独自の作風は、善円時代の作品にも、善慶時代の作品にも共通して認められる特色である。 「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より わずか一尺ばかりの小像ではあるが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や真紅の彩色が鮮やかにのこっている。宝瓶蓮華に坐し、弓と矢を持ち、頭髪を逆立て、両眼をかっと見開く忿怒の顔は、みる人の心に鋭くやきつく。手法はなかなか巧みで手堅い。きりりっとしまった緻密な彫法は肢体をよく整え、全身に若々しさがみなぎっている。 先年、像内から木造六角幢形の容器にはいった金銀舎利容器や、この像の本軌(お手本にするきまり)である瑜伽瑜祇経(ユガユギキョウ)、造立願文などが発見された。それらによると、この像は宝治元年(1247)に叡尊が願主となり、仏法興隆の念持仏として、仏師善円が造ったものであることがわかった。 仏師善円については、これよりさき嘉禄元年(1225)に、東大寺指図堂の釈迦如来坐像を造った仏師として知られているが、ほかに確かな資料が少ないので詳しい事績はわからない。しかし、かの像には叡尊の先輩である明恵や、貞慶の弟子筋に当たる覚澄が関係しているから、善円はもともと南都の律匠と関係をもち、のち叡尊の知遇を受けるに至ったものと推測される。 なお、この愛染明王像は、寺伝によると弘安四年(1281)、の元寇の役(十三世紀後半に起こった蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊となり、その結縁(祈願や修法の最終日)の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。これにちなんで、近世(宝暦四年)にこの像が江戸回向院(エドエコウイン)に出開帳(寺をはなれて仏像を特別開扉すること)された時、二代目団十郎が中村座で「矢の根五郎」を上演し、また鳥居清信(江戸時代の浮世絵画家)が描いて奉納した絵馬が寺に現存する。 「秘仏特別開扉」西大寺 平成26年10月より |
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私
の 想 い |
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小さい作品ながら、しっかりしている。叡尊さんの念持仏だったようで、大切にされたのだろう。同窓の醍醐寺大学の大先輩である偉大な東大寺の重源上人が、念持仏としていた愛染明王像を持っていたという。憧れの大先輩に倣って、自分も何時かは、持ちたいものと思っていた。そこで、先輩の明恵上人から紹介された同年代の善円に、愛染明王坐像の制作を依頼したのである。紹介された明恵上人からは、善円は若い時から技量が優れていて、海住山寺の貞慶先輩も技量を認めているという。そして、出来上がった愛染明王像を手元に置いて観て、予想外の出来栄えに感激したのである。 当時仏教の復古活動の先端である釈迦信仰の振興に寄与するために三国伝来の釈迦如来立像を京都・清凉寺に行って模刻をして来る様に善円に依頼したのである。 と言う様に、ちょっとした切掛けで、それ以後の生き方や人生が大きく変わるのだろう。善円はこの像以後の作品には、善慶を名乗り叡尊とのコンビで仏像を制作したのである。 更に、叡尊は善慶の息子善春の成長までも、見届けるのであるから善慶との関係は兄弟以上のものが、二人にしか判らないものが在ったのである。そんな二人の関係が作られた作品がこの像なのである。 |
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所蔵仏像 |
釈迦如来立像 |
渡海文殊菩薩騎獅像 | 善財童子立像 | 最勝老人立像 | 優てん王立像 | 仏陀波利三蔵立像 |
十一面観音立像 | 持国天立像 | 増長天立像 | 広目天立像 | 多聞天立像 |
吉祥天立像 | 行基菩薩坐像 | 大黒天立像 | ||
愛染明王坐像 | 興正菩薩坐像 |
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愛染明王の考察 |