仏像名

ふりがな  もくけんれんりゅうぞう

大報恩寺
制作年代

重文
鎌倉時代

けん連立像

様 式

承久二年(1220)

俗称又
は愛称

製作材質

木造、玉眼
彩色、切金文様

樹 種

像 高

97cm

製作者

快慶作

安置場所

霊宝館

開扉期間

解 説

目けん連はまた目連ともいわれる。釈迦の十大弟子のうちで神通第一とたたえられた人である。この人の事績の内で特に名高いのは、神通力を持って自分の母が餓鬼に生まれ変わっていることを知り、僧を招いて飲食をもうけ、その残りを母に与えて餓鬼道から救い出した話である。
 これがお盆の行事の起源となり、現在でもお盆が来ると、日本の津々浦々に至るまで盛んに祖先の供養が行われるのである。
 快慶が千本釈迦堂の本尊釈迦如来像を弟子行快に造らせ、自らは十大弟子の中のこの目けん連像を担当したのは何故だろうか。
 快慶は東大寺を復興した俊乗房重源の弟子となり、安阿弥陀仏と号した様に、熱心な念仏行者であった。念仏を唱えて極楽往生を願うものは、一方では地獄、餓鬼などの六道に生まれ変わるのを逃れ様とする。
 餓鬼道に落ちた母を救った目けん連に対して、快慶は最も親しみを感じたことであろう。この頃、快慶はすでに老境に差掛かり、実際の製作活動はほとんど弟子達に任せていたらしいが、この像の製作は進んで引き受けたのであろう。
 快慶がこの像を、目が落ち窪み、猫背の痩せ衰えた老人の姿に造ったのは、念仏に励むこの頃の自分の姿を写したからではないだろうか。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より

 大報恩寺本尊釈迦如来座像に、眷属として従う、十大弟子中の二躯。両像の足枘(そくぜい)に法眼快慶の墨書があり、目けん連像の台座に「正三位行兵部卿藤原朝臣忠行」の刻銘がある。
 この忠行の位階、職掌から、建保四年(1216)、から承久元年(1219)、の頃の造立であることが判る。
 阿難陀像にも納入経巻があり、承久二年(1220)、の奥書が記されており、ほぼこの時期までに快慶以下の一門により造られたことが推定出来る。
 寄木造、玉眼嵌入。各像とも写貌にすぐれ彩色、截金文様もよく残っている優作で、これらの像の顔つきは、京都常楽院の十大弟子像にも影響を与えている。
 装飾的な傾向は、快慶の絵画的な嗜好がよく表現された晩年の作である。
「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」より

私 の 想

右手を下に落として、人差指で地面を指差す。左手は前に出して、手の平を上に何を受けようとしているのか。右手の人差指には力が入っている。腕の筋肉が盛り上り、血管も浮き出ている。
 平成21年10月に京都・滋賀「仏像観て歩き」・副題「千手観音と十一面観音を訪ねる」と銘打って「仏像観て歩き研究会」の仲間と訪問しました。
 偏袒右肩の右肩をはだけた姿をしている。人差指を立てて腕を下に降ろし、地面を指差す。人差指に力がこもる。
 左手は肘を直角に折り、手の平を上にして前に出す。何かを受け取ろうとしているのだろうか。地面に転がったものを拾ってもらって、受け取ろうとしているのかも知れない。
 胸の肋骨からは想像できないような右腕の筋肉である。また、快慶の特徴である四角張った面相と眼光の鋭さである。

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