右手は肘を外に出すようにして、折り腹の前で手の平を正面に向け、親指で深く折り曲げた中指の第二関節辺りを摘む。
左手は肘を軽く曲げて前に出し、手の平を上にしてわずかに中指と薬指を浮かす。胸元は大きくはだけて、三段腹まで観える。
頭が羅髪なので、如来であることは判る。左手が中指を摘んでいないので、阿弥陀如来像でもない。
よく観るとどうも、左手が不自然にも観えて来る。別な手が薬壷を持っていたのかも、知れない。素人の勝手な想像です。
平成22年11月に遷都1300年「仏像観て歩き」として訪問した時には、次のように書いている。
この金堂にご出演の仏像のお顔ぶれを観ると、いろいろ考えてしまう。一つは本尊の釈迦如来を中心にした布陣である。しかし、脇侍に文殊菩薩は居るが、普賢菩薩は居ない。代わりが地蔵菩薩に成るのだろうか。
もう一つは、薬師如来を中心にした布陣なのだろうか。脇侍は日光・月光菩薩の変わりに十一面観音と文殊菩薩とでも考えるのだろうか。守護神に十二神将も着いている。本尊が小さいのも不自然である。
どれも中途半端な組み合わせである。第一に本尊を釈迦如来としたことに最初の間違いがあるようだ。左手に薬壷を持ったら、寸分違わぬ薬師如来像である。その片鱗が左手の中指と薬指を曲げている。手の平を見せて与願印であるが、薬壷が落ちないように曲げているのである。唯、薬壷を失っただけで、薬師如来から釈迦如来に名前換えをさせたところに無理がある。本体と光背にも違和感が残る。本体を薬師如来にすると、元々薬師如来のための光背であるから、一体感のある存在としてすっきりと治まる。薬壷を失った薬師如来を釈迦如来に仕立て上げたところにこのお堂の不思議な、寄せ集め出演者と呼ばれる所以がある。
どの道、この薬師如来像はこのお堂の中では、存在感が薄いのだが、一つだけ観て欲しいのが、衣文線である。翻波式だのいろいろ言われるが、この像の特徴は、衣文線の山のところを縄状に彫っている。波形の頂点の先が、木目と共に欠けて縄状に見えるかも知れないが、衣文線が荒縄を垂れ下げたように、太く規則正しく垂れ下がる。何とも奇妙で面白い。
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