サンスクリット語の(ヴァス)の音写で、西域や敦煌あたりの壁画や絹本の千手観音図中には常に功徳天と一対で登場する仙人だが、その理由は不明である。
「三十三間堂の佛たち」より
三間堂の千手観音像の胎内から出た長寛(1163〜5)、創立頃の摺仏には三種類あって、婆藪仙人はいずれの図にも見られるが、頭が鳥の形をした迦楼羅王は一種だけに認められる。
この長寛の摺仏は、千手観音の四十二臂(普通四十二臂で千手観音を表わす)の内の二臂を頭上で組む清水寺型であるのが変わっている。清水寺といえば、この千手観音の霊場には、天仁(1108〜10)、の頃定深がいて、それまで不明確だった二十八部衆の名称を決める本を表わした。
それでもこの本には婆薮仙人と迦楼羅王について述べているところはない。それが長寛の摺仏に明確な姿となって現れて来るので平安末期に二十八部衆の名称が少しずつ決まって行ったものと思われる。
しかし、長寛の摺仏でも風神、雷神を入れて二十八部衆としており、風神、雷神の他に二十八部衆がある三十三間堂とは違っている。恐らくはじめは図の上で二十八部衆の組み合せがいろいろ試みられて来たが、彫像として現わす様になったのは、この三十三間堂が初めてではなかったかと思う。
なぜなら、二十八部衆の中には、神将あり、金剛力士あり、俗体あり、迦楼羅王の様な異形ありで、変化と人間味に富んでいるので、鎌倉時代の仏師にとって、この上なく良いテーマであったと思われるからである。
特に老人の姿に表わされた婆薮仙人のリアルな表現を見ると、この変革期にあたって、宗教芸術の枠から離れ、人間性をひたすら追求する事が出来た仏師たちの、活気溢れた芸術活動が想像される。
しかし、鎌倉時代の彫刻のこの様な傾向は、その後決して彫刻の主流となった訳ではなく、南都北嶺の諸大寺はまたしても復興して、宗教的拘束を強め出したし、法然、親鸞、一遍などを開祖とする浄土諸宗をはじめ日蓮宗、禅宗など鎌倉時代に興った各宗派は、造寺造仏の功徳を否定する傾向を持って居たため、新旧仏教の双方からの圧力を受けて、仏像彫刻は鎌倉前期に見られた活気を失い、急速にその質を落としてしまったのである。
なお、迦楼羅王とは天龍八部衆の一つで、龍を食う鳥頭の天部である。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
蓮華王院本堂の裏側(今は前列になっている)には、千手観音に随従する善神である二十八部衆を安置している。婆薮仙はその中の一体。これらは建長の火災には救い出したとの記録はあるが、いつの造立になるものか判明しない。長寛の草創期のものではないことは作風から見て確かであろう。
この像は枯れた老人の風貌と肉体を見事に写し得て、鎌倉時代式の写実主義が最も成功した像の一つである。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
音の眷属としての二十八部衆像では、この妙法院、即ち蓮華王院三十三間堂の西廂の間に、安置される諸像が最も著名である。「吾妻鏡」にも毛越寺千手堂に金銀を鏤めた二十八部衆像があったという。
長寛二年(1164)、後白河院が創建の後、建長元年(1249)、この堂が火災に遭い、その際寺衆が千手観音156躯と二十八部衆を取出したと「一代要記」に記される。
本尊千手観音座像は、湛慶、康円、康清らにより、直ちに復興されている。この二十八部衆も慶派第二世代の人々のよって造られたものであろう。老人、婦人、天部、神将など、種々の像様が含まれる。
行法に徹した老仙人の、痩躯の手足に走る静脈も見逃せない。凹んだ目の玉眼、辛苦の表情の捉え方など、巧みな写実によって表現しつくされ、頭巾まで脱げる様に造られている。
盛上彩色を交えた鮮やかな彩色の上に截金文を置く正統的な手法で仕上げてあり、古来作例の多い架空の動物の迦楼羅も、ここでは仮装した人間の表現を見る様である。
「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」より
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