仏像名

ふりがな  せんじゅかんのりゅうぞう

蓮華王院
制作年代

    重文
鎌倉時代

千手観音立像

様 式

建長三年(1251)
文永三年(1266)

俗称又
は愛称

製作材質

木造、玉眼
漆箔

樹 種

像 高

165〜
168cm

製作者

湛慶等作

安置場所

三十三間堂

開扉期間

解 説

  876躯

蓮華王院本堂の中尊像左右に一千体の千手観音立像(他に中尊像背後に一体)が立ち並んでいる。この堂は初め後白河法皇の御願により長寛二年(1164)、に建立され、千体千手観音像が安置されたが、建長元年(1249)、の火災に遭った後、再建され、仏像は湛慶以下多数の仏師によって復興されて、文永三年(1266)、に供養された。
 建長火災時に救い出された長寛草創像百余体を含んでいるが、その他はこの再興時のもので、その作者銘に湛慶、康円などの慶派、院継をはじめとする院派、隆円以下の円派の多数の仏師の名を見る事が出来る。
 この再興造像が当時の仏師界を挙げての大事業であった事が知られると共に、建長、文永頃の各派の作風の特色がこれ等に見られるのは貴重である。
 いずれも寄木造、彫眼。各像内に千手観音種子を記した月輪(板製、蓮華座と茎を伴う)、千手観音及び二十八部衆の摺仏、木版の千手観音陀羅尼を納入している。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より

 これら10体の千手観音立像は、蓮華王院本堂中尊像の左右に脇侍する一千一体の内のものである。蓮華王院は長寛二年(1164)、に後白河法皇の御願により法住寺殿内に建立された。
 その名の由来するところは、千手観音が蓮華王大悲観自在菩薩と呼ばれたところによる。当時、千体仏の造立はしばしば見られるが、元の姿を今に伝えるのは蓮華王院諸像が唯一のものである。
 しかし、創立当初の像は建長元年(1249)、の火災に遭い、記録によれば、中尊の御首及び左手、千体観音像中の156体、二十八部衆が救出されたと伝える。
 再興造像は建長三年(1251)、当時の名だたる仏師を総動員して始められ文永三年(1266)、に供養の運びになったが、中尊丈六の千手観音坐像は建長六年(1254)、湛慶の手になる事で有名である。
 脇侍中には長寛草創時のもの156体を含むが、その他はこの建長、文永の再興時のものである。再興像には銘を記すものも多くあり、湛慶、康円、隆円、勢円、院継、院承、院賀等各流派の作者の名が見られ、同一形式のうちに、当時の仏師達の作風を比較検討する事が出来、彫刻史上重要な意義を持っている。
「特別展 鎌倉時代の彫刻 1975年」より

私 の 想

鎌倉時代の製作は、幾つものグループに発注する形であり、それぞれのグループが競争する。形を決められた中での製作で、苦労もあったことだろう。この力が風神、雷神の姿に代表される力強さに繋がっている。
 平成21年10月に京都・滋賀「仏像観て歩き」・副題「千手観音と十一面観音を訪ねる」で訪問しました。
 造像の総責任者の湛慶は、規格の決められた千手観音と規格の緩やかな二十八部衆を併せて、制作グループに発注することで制作意欲を掻き立てて居たのではないかと、想像するのである。姿形に変化の乏しい千手観音像に対して、ある程度の自由さの許された二十八部衆である。
 その規制と規制から解き放たれた自由な開放感から、二十八部衆が活き活きとした群像に仕上がった出来栄えではないかと思います。
 湛慶はここでも、八体の千手観音立像を制作しています。展示は横一列に並べ、五体と三体の空席になっています。三体の空席は、東京国立博物館に行って常設展示されています。

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