鎌倉彫刻の面目躍如とした名作である。伝説・教義・儀軌に発した解釈や空想が、天部の諸神・諸鬼や力士などの制作体験から進んで、迫真の気勢はここに極まったと言えよう。
宗達の名画をはじめ、後世の人々は風神・雷神のイメージを抱くとき、この両像を典拠としたようである。
「蓮華王院三十三間堂」より
千体の千手観音像が並ぶ、三十三間堂の裏側には、千手観音の眷属である二十八部衆像とこの風神、雷神の両像が安置されている。(昔は裏の廊下に並んでいたが、現在は千手観音の並んだ前列に一列に端から端まで横に並んでいる)風神は風を詰めた細長い袋を両肩に負い、雷神は円形に連ねた小太鼓を背に、いずれも高いところから上半身を乗り出し、下を見下ろす裸の鬼の姿に造られている。
仏教では、古い時代から自然現象を、司る仏が定まっていて、風天、火天、水天、日天、月天などの様に、天部の姿で表わす事になっている。天部像は仏像の中では一番人間に近く、風の神である風天は衣を風になびかせた老人の姿に造られる。
ところが、三十三間堂の千体千手観音像の胎内から出た摺仏の中に、長寛年間(1163〜5)、創立当初に作られた千手観音と二十八部衆の図があり、これに描かれている風神、雷神は三十三間堂と同じ持物を持っているが、姿は他の眷属と変わらぬ天部像である。
これを三十三間堂像の様な鬼の姿に変えたのは、鎌倉時代の仏師の創造と言って良く、承久年間(1219〜22)、に造られたという北野天神縁起では、雷神が鬼の姿に描かれている。鎌倉時代の仏像は写実的だというが、空想力もたくましい。
鎌倉時代の仏師が得意とした鬼には、この両像や来迎印の護法神、興福寺の天燈鬼、龍燈鬼などの様に、空想力が豊かに発揮されているが、また、その上にユーモラスな気分も現れていて一つの特色になっている。そこには、格の下がった天部の様な仏像は、思い切って神聖な仏としての性格を除いてしまい、仏師の空想力を満たした彫像にしてしまおうとする傾向が見える。
この様な仏像を仏堂に安置し、毎日これを礼拝する人の心情の中には、閻魔王を始めとする地獄の冥官に供養して、地獄落ちを免れようと願った場合と同じ様に、人間に危害を与える力を持った、神仏におもねる気持があるようである。
鎌倉時代には、人間味に溢れた仏像が現われると同時に、人間の打算的な願いを込めた仏像も現れて来たのである。近世になって、宗達がこの風神、雷神をデフォルメ下絵を描いているが、三十三間堂像が現れてから、風神、雷神に対する日本人のイメージはすっかり固定してしまったらしい。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
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