中尊は、各部の均整がよく誇張のない温雅な表情に湛慶の特色がよく表れている。厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔は千体像の作品にも共通する彼の彫風であり、湛慶は運慶の長男で、鎌倉中期を代表する大仏師であった。父運慶の作風に一段と洗練の度を加えた気品にあふれるもので、この中尊を作ったときすでに八十二歳の老齢だった。
中尊は、単に湛慶の傑作であるばかりではなく、本格的な鎌倉彫刻の最後を飾る作品として美術史的にも重要な意味をもつものといわれている。
「蓮華王院三十三間堂」より
妙法院が管理している三十三間堂は正しくは蓮華王院と呼ぶ、後白河上皇の御住居法住寺殿に接して、長寛二年(1164)、に建てられた上皇の御願寺であった。
造営にあたっては、保元、平治両度の戦乱を経て権勢並ぶ者ない平清盛が一切を裁量した。しかし、この長大な堂に一千体の千手観音像を安置する構想は、上皇の発案であったと思われる。
この構想は上皇の御父鳥羽院が千体の阿弥陀像を納める白河千体堂や、千体の聖観音像を納める得長寿院を、造営された先例に従ったのであるが、この複雑な千手観音像を千体も並べる点に、造寺造仏の功徳を重んじる信仰が、最高潮に達した平安末期の風潮や、上皇の千手観音に対する厚い信仰の様子をうかがう事ができる。
後白河上皇は、自ら当時の民間の流行歌謡集である「梁塵秘妙」を選述された事でも判る様に、単に新奇を好むだけでなく、時代の先端を行く芸術の理解者であられた。
この「梁塵秘妙」の中にも、上皇が熊野新宮にもう出て夜どうし千手経を読み、暁方になって、次ぎの今様を繰り返し、繰り返し歌い上げたことが書いてある。よろずの仏の願いよりも、千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに、花咲きみなると説き給ふ。
また、清盛の女・高倉天皇の中宮徳子(後の建礼門院)が難産の時、法皇の身でありながら、験者となって千手の神呪を唱え、その験力によって皇子(後の安徳天皇)が無事に誕生したとも伝えている。
現在の本尊千手観音坐像は、建長六年(1254)、に湛慶が造った再興像で、この本尊の左右に並ぶ、千一体の脇侍千手観音立像も、その九割に近い数がこの鎌倉復興期に造られている。
これらの脇侍像は、鎌倉時代の諸仏所の共同作業で造られたが、当初の脇侍像も平安末期の諸仏所が共同して造ったと思われる。その中でも、蓮華王院の造像では、奈良仏師の慶派仏所の活躍が目覚ましく、当初の本尊の作者は湛慶の曽祖父康助であった。
恐らくこの本像は後白河院の指導により、鎌倉様式の出現を思わせる様な、斬新な様式で造られ、当時の人々の目を驚かせたであろう。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より
建長三年(1251)、にその造仏を始め、建長六年に功がなった。時に大仏師法印湛慶は八十二歳であった事が、銘記されている。二年後の建長八年に湛慶は没しているから、これが彼の畢生の作となったわけだ。
名匠運慶の後を継ぐものとして、また当時の仏師界の長老として、古典的整斉の中に力強さを讃えた、真に堅実な作風を示している。湛慶は同時に九体の千手観音像をここに作っている。
「仏像ガイド」 美術出版社 1968年より
三十三間堂(蓮華王院)の千体千手観音の中尊、丈六の坐像である。台座の墨書銘に、修理大仏師法印湛慶が、小仏師法眼康円と法眼康清と共に、建長三年(1251)、七月に造り始め、同六年正月に完成した事、時に湛慶八十二歳であった事を記している。
湛慶はこの二年後に没した。運慶没後にその一門を率いた長子湛慶の、最晩年の大作である。長寛二年(1164)、草創像の復興の意味もあるが、穏やかな造型であり、その堅実な彫技の内にもさすがに力強さが感じられる。
寄木造、玉眼嵌入。二重円相の周縁に、賑やかな雲烟を飾って多数の化仏を配し、光脚に複雑な花文を刻んだ光背、緻密にがっちりと構成された台座にも力が籠もっている。
「運慶と鎌倉彫刻」 小学館 1973年より
千体にも及ぶ等身の千手観音立像(重文)が118mの長大な三十三間堂内に立ち並ぶ。その中央の柱間3間分に壇を構えて座すのが、中尊の丈六千手観音菩薩坐像(国宝)だ。中尊も千手観音像も全て木造漆箔造り。息をのむ金色の千手観音世界である。
中尊は鎌倉時代に活躍した仏師湛慶(1173〜1256)が晩年82歳で造ったヒノキ寄木造りの四十二臂千手観音だ。大阪・葛井寺の千手観音が真数千手坐像の代表とすれば、こちらは四十二臂坐像の最高峰と言えるだろう。
須弥壇が大きくて高く、拝観者の中尊を仰ぐ距離と角度が絶妙である。そのため表情は写真で見るよりずっと清雅で温和だ。やや長い指の合掌手も違和感なく拝せる。
四方を固める四天王立像や透かし彫りの仏菩薩像を配した光背、華麗な金色の瓔珞を垂らした天蓋なども中尊の品格を盛り立てている。私の持論「仏像は堂内で拝すべし」が実感できる観音像だ。
湛慶は運慶の長男で康慶、運慶に続く慶派の棟梁として名高い。前半生は主に奈良、後半生は京都の七条仏所を中心に活躍。洗練された堅実な作風が持ち味とされ、代表作の三十三間堂中尊像は自らが大仏師となり、同じ慶派の康円、康清を小仏師に従えて1251(建長3)年から54年にかけて制作した。若いころには東大寺南大門の仁王像吽形像の造立にも携わった。
千手観音立像は中尊左右の柱間各15間分10段に500体ずつ林立(5体は東京国立博物館などへ寄託)、ほかに中尊背後の裏堂に1体が立つ。
造像には慶派に加えて円派や院派なども動員された。湛慶作の9体をはじめ過半の像に仏師名が記され、その名は慶派の康円や行快ら、円派の隆円や勢円ら、院派の院継や院承・・・と数多い。千体とも四十二臂の同形だが、よく見ると、顔の造りも衣や持物の形状も個性的で様々である。
蓮華王院は平安院政期の後白河上皇による勅願寺院。1249年の市中火災で類焼後に再建した本堂が三十三間堂だ。本尊は中尊と1001体の全観音像。ひと目千体千手の荘厳壮大な仏殿である。
「探訪 古き仏たち」より 朝日新聞 2013.7.13.
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