仏像名

ふりがな みろくぼさつはんかぞう

広隆寺
制作年代

国宝
飛鳥時代

弥勒菩薩半跏像

様 式

俗称又
は愛称

宝冠弥勒といわれている。

製作材質

木造
漆箔

樹 種

赤松

像 高

84cm

製作者

安置場所

霊宝殿

開扉期間

解 説

 我が国で最も古く最も美しいこの弥勒菩薩は、永遠の微笑で人々を苦しみから救って下さる仏さまである。
 細い眼、はっきりした眉、それにつづく通った鼻筋によって、まことにすっきりと整えられていて、唇の両端にやや力を込めているために多少微笑を含んでいるように感ずる。
 両手の表現は変化があり優雅な趣に溢れ、特に右腕のカーブの線が美しくそして、両足を被う裳が台座に垂れかかる部分は皺を顕著に表わし、又、衣端に変化を与えている点は上方の簡素な表現と対照的で非常に美しいのである。
 用材は赤松であり、製作は飛鳥時代であるが、この時代の彫刻でこれ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれ程、神的なものに近づいて居る事も他に類をみない。
「広隆寺縁起より」

 この像のように、右足を左膝の上にあげ、右手をまげて、頬杖をついたような姿の像を半跏思惟の像という。半跏思惟像は、悉達多太子が、瞑想にふけっていた時の姿をかたどったものであろうと考えられている。
 中宮寺の半跏思惟像や、この像などは、半跏思惟像中、最も有名なものである。この像については、推古天皇十一年(603)、秦河勝が、聖徳太子から仏像を賜わり、蜂岡寺(広隆寺)を建てたということが、古書に記されているところから、この像は、この頃のものであろうと一部の人々から考えられている。
 しかしこの像の様式は、その柔らかい体のこなしにしても、衣文の自然な皺にしても、中宮寺の像よりも更に進んでいることが判り、飛鳥時代末頃の制作であろう。
 松材を刻んだ彫刻で、胸飾、環釧等が、今日失われている他、蓮花座も後補の部分が多い。
「日本の彫刻 上古〜鎌倉」 美術出版社 1966年より

 宝冠弥勒ともいわれる大きいほうの弥勒菩薩像は、推古天皇の十一年(603)、に聖徳太子が秦河勝に賜わった仏像である。川勝はこの仏像を帰化人秦氏の根拠地である太秦に持ち帰り、毎日礼拝供養する事を欠かさなかった。
 仏教渡来の極く初期でも、すでに中央、地方の諸豪族が、君臣の恩に謝するため、競って寺を造営していた。
 川勝もまた山城一帯に広がっていた秦氏の長として、太子から賜わったこの像を本尊とする寺を造営したものと思われる。
 これが広隆寺の起源であるが、ただ、当初はこの像を安置するだけの小規模な仏堂であったのだろう。
 下って推古天皇の三十年(622)、に聖徳太子が亡くなられると、川勝は一族の力を結集して大伽藍を造営し、秦氏の氏寺とすると共に、太子の冥福を祈る道場とした。
 その後、この弥勒像は太子のお形見とも、また太子ご自身の姿を写した像とも考えられて、人々の尊崇を集めたのである。ところが、平安前期に社会を風靡した七仏薬師の信仰は、この寺にも波及して来た。
 貞観六年(864)、清和天皇の病が重くなった時、京都西山願徳寺の七仏薬師像を本寺に迎えて祈祷し、その効あって天皇が快復された時から、この薬師如来像が広隆寺の本尊となったのである。しかし、日本仏教の祖聖徳太子の信仰は、いつの時代にも盛んであった。
 広隆寺は太子ゆかりの寺として、今はない金堂には、本尊薬師如来像と並んで、この弥勒像が安置され、「太子本願の御形」といわれて尊ばれていたのである。
 朝鮮産の赤松で出来ており、同じ様式の弥勒菩薩像が、朝鮮に残っている事などから、朝鮮にゆかりの深い仏像である事が判る。
「京都の仏像」 淡交社 1968年より

私 の 想 い

 子供の寝顔を思うひと、瞑想にふけると思う人、微笑をしていると思う人、ほほえみを讃えたお顔は、何に対してほほえんでいるのだろうか。仏像の顔には、怒った顔、引きつった顔、大きな口を開けた顔等、様々あるがそれらがどうしてそんな顔をしているか考えるのも面白い。
 美を追求するためもあろうけれども、作者は作品を通して、美と同時に内に潜む心を表現したいと思いで造る。美という点でこの像は、非の打ちどころがない。肉体的には弱々しさはあるけれども、顔の穏やかさと弱々しさが相まって、この像の美を創出している。
 鼻筋の通った美しいお顔である。木目が顔を斜めに走り、腕には縦に、折った右膝では丸く円を描いて先でまとまる。この木目も読んで造ったのだろうが、膝頭でまとめるとは心憎い。
 最初にお目に掛かったのは、例のキス事件の後で、修理の終った後であった。当時新聞に余りの美しさに大学生が壇上に登って、右手の薬指を折ってしまったと報じたのを覚えている。こうした事故があるために、年毎に拝観する者と仏像の距離が遠くなる。
 それも一方では、仕方のない事と謂わざるを得ない。不心得者への対処であり、文化財を守る意味で大切である。しかし、仏像の本来の目的は、祈りの対象であるから、不心得者は存在しない筈なのである。
 そこで、私はこれからも、ますます仏像との距離が遠くなるばかりで、近くなる事は期待出来ないから、早い時期に観てしまう事をお勧めする。
 ここでも、3回目の今回が一番遠くなっている。東大寺戒壇院の四天王も最初の頃は、壇上に上げてくれて、同じ目線で拝観出来たが、次からは、檀下から見上げる事しか出来なかった。これと思っている仏像は、時を置かずに一刻も早く見てしまう事だ。早い者勝ちである。
 平成21年10月に京都・滋賀「仏像観て歩き」を「仏像観て歩き研究会」の仲間と一緒に拝観旅行を行いました。その時には次のように書いている。
 この弥勒菩薩像はどの方向から拝観するのが、一番だろうかと考えてみたい。まずは、正面から観ると、実際には右手の指は頬には触れていないのだが、身体全体が右に少し傾いている。あたかも、右手の指先で支えているように観える。
 右手前から拝観した時には、右手の指と頬が触れていないのが判る。頭から背筋から腰に至るまで、一直線になって前かがみになっている。指先に力が懸かっているわけではない。ただ構図として、力が加わりバランスが取れている。
 左手前から拝観した時には、前かがみになった頭を、右頬に当てたように観える指先で支えているように観える。


弥勒菩薩半跏像画像一覧その1
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