仏像名

ふりがな ぶっとう

興福寺
制作年代

国宝
白鳳時代

仏頭

様 式

俗称又は愛称

製作材質

金銅
鍍金

樹 種

像 高

頭長106cm

製作者

安置場所

国宝館

開扉期間

解 説

この仏頭は、昭和十二年、興福寺東金堂修理の際、本尊の台座の下から発見された彫刻である。その大きさから丈六如来像の頭部である事が判り、現在の像の以前に、東金堂の本尊として、安置されていたものであろうと推定されている。
 もしそうだとすれば、東金堂の中古の本尊は、文治三年(1187)、に興福寺の東金銅衆等が、山田寺から奪取して来た、金銅丈六薬師三尊像であったことが、玉葉の記事から知られる。
 しかも、山田寺の薬師三尊像は、同寺の創始者蘇我倉山田石川麻呂の、追福のために造られた由緒深い像である。奈良朝当時の記録である「法王帝説」の裏書には、この像が、天武天皇六年(678)に着手され、同十三年(685)に開眼会が行なわれたことを伝えている。
 像の持つ様式も、丁度、この頃に相当するので、この像をもと山田寺の本尊とみなす説は、定説となっている。
 像は、頚から下を全く失い、左耳朶と肉髻の大部分も取れ、頬にも火災の時の歪みが著しいが、なお、白鳳時代の巨像の面影を良く伝えている。
 金銅造で、もとは鍍金があったものであろう。また額には恐らく、水晶の白眉を着けていた。
「日本の彫刻 上古~鎌倉」 美術出版社 1966年より

 この像は、蘇我倉山田石川麻呂追福のために、天武十三年(685)、に開眼供養の行われた丈六薬師如来像の頭部である。この像は、鎌倉時代に興福寺の東金堂の本尊に据えられ、その後の火災に頚から下を失ったが、昭和十二年に東金堂の台座の下から偶然発見されました。
 頭部だけでも 1mからある巨像であるが、なお唇には微笑をたたえ、幼な顔に造られている。この表情の明るさは、上昇期にある天武朝の社会を、反映しているのであろう。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より

私 の 想

  きりりとしたお顔の頭部像である。全身あればさぞ大きかった事でしょう。この像の全身を造るだけの金属を揃えるとなると大変な時代であった。
 大仏さんからそう離れていないところであるから、技術的にはいくらでも出来たのだろう。しかし、金属となると技術者を揃えるよりも難しい。それこそ、国全体というか、地域全体の生産力になってくる。しかし、この時代にそれを実行しようとしたのである。
 その後の権力争いによってみんな灰塵にしてしまった。

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