仏像名

ふりがな らこうらりゅうぞう

興福寺
制作年代

国宝
奈良時代

羅候羅立像

様 式

天平六年(734)

俗称又
は愛称

製作材質

脱活乾漆造
彩色

樹 種

像 高

148cm

製作者

安置場所

国宝館

開扉期間

解 説

 釈迦が出家する以前に夫人のヤスダラ妃との間に生まれた子であった。釈迦がさとりを得られ、はじめて故郷のカピラ城に里帰りされた時に弟子になった。
 釈迦が定めた決まり、(戒律)を良く守り、人々の模範となり、戒行(蜜行・忍辱)第一の人と称された。
 釈迦の子として他人から絶えず注目されている事を良く知っていて、人の二倍も三倍も努力し、また身を慎んだと言われる。
 像は正面を向き、目を閉じ、両手は腹前で袈裟の中に包む。その袈裟は求心的にまとめられる。
「法相宗大本山 興福寺」より

私 の 想 い

 袖内に両手を隠す。それも左袂に右手を深く入れる。静かに成り行きを見守る。無言で居るところを見ると、納得の行方なのだろう。この方と須菩提像だけが傷ついていない。
 手の変化がないだけに、破壊者の手に罹らなかったのだろう。ここの十大弟子像のいくつかは、政争か、宗教争いの折に、仏像の破壊に遭ったに違いない。
 手の先や足の先が破壊されている。その姿が、また、痛々しい。そして、本当であれば十体であったはずなのに、現在は六体しか残っていない。阿那律像、阿難陀像、大迦葉像、優婆離像の四人が不在である。
 もし存在していたら、美男子と云われる阿難陀像は、どんな姿だったのだろうか。想像したくなる。また、京都・大報恩寺の快慶が関わったとされる十大弟子と、制作年代は、違うが比較するのも面白い。快慶であるから、多いにここの十大弟子像を参考にしたに違いない。
 平成21年4月に東京国立博物館で開催の「国宝 阿修羅展」での拝観では、次のように書いている。今回の私のテーマは田相衣がどのようになっているかである。
 田相衣で全身を覆う。黒い筋がどのようになっているか。
正面は、真中よりも左より1本
右横からは2本
真後ろの真中に1本
右真横に1本
大きく黒い縦筋が5本入っている。
 この方だけが、沓履きである。修行中とはいえ、曲がりなりにもお釈迦様の御曹司である。若様には、ぞうり履きは似合わない。沓履きでの修行である。どこかの国の総理も石炭屋かセメント屋の御曹司だが、大勲位の孫とあっては、背広しか似合わない。
 皮肉な言い方だが、それはそれ、分相応というものである。

羅候羅立像画像一覧その1
羅候羅立像画像一覧その2
羅候羅立像
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興福寺4(国宝館所蔵仏像)
仏頭(銅造) 仏頭(木製)
阿弥陀如来坐像 釈迦如来坐像 釈迦如来立像
薬師如来坐像 千手観音立像 観音菩薩立像 地蔵菩薩立像
天燈鬼立像 竜燈鬼立像 金剛力士(阿形) 金剛力士(吽形)
梵天立像1 帝釈天立像 梵天立像2
弥勒菩薩半跏像 吉祥天倚像 広目天立像
八部衆像
阿修羅立像 五部浄立像 鳩槃茶立像 緊那羅立像
乾闥婆立像 迦楼羅立像 畢婆迦羅立像 沙羯羅立像
釈迦十大弟子
富楼那立像 羅睺羅立像 目犍連立像
迦栴延立像 舎利仏立像 須菩提立像
板彫り十二神将像
毘羯羅 招杜羅 真達羅 摩虎羅
波夷羅 因達羅 珊底羅 額儞羅
安底羅 迷企羅 伐折羅 宮毘羅
興福寺1(北円堂)
興福寺2(東金堂)
興福寺3(仮金堂)
興福寺4(国宝館)
興福寺5(南円堂)


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