仏像名

 すぼだいりゅうぞう

興福寺
制作年代

国宝
奈良時代

須菩提立像

様 式

天平六年(734)

俗称又
は愛称

製作材質

脱活乾漆造
彩色

樹 種

像 高

147cm

製作者

安置場所

国宝館

開扉期間

解 説

 八部衆像と共に、もと西金堂に安置されていたものである。この堂は天平六年(734)光明皇后の造られたものだが、今は廃滅し、当時の像もこの二具だけとなっている。
 個性的でしかも明快な面相の造り、一見無造作に見えながら彫塑の原則を、掴んだ躯貌と衣褶の表現は古典的な造形の美に溢れ、後の乾漆像には見られぬ慈味がある。
「仏像の美 見かた考えかた」 社会思想社 1968年より

 興福寺に伝わる6体の乾漆群像である。難解な釈迦の教えを受け継ぎ広めた高弟たちの像だ。だが、英才俊秀のイメージはない。痩身で小顔。民衆に溶け込んだ清貧の比丘と呼ぶのがふさわしい姿だ。
 天平の国宝脱活乾漆像が14体集まる興福寺国宝館の特設室に、阿修羅などの八部衆立像と対面する形で立つ。釈迦の十大弟子像だ。元は10体あったが、今は6体だけ。心木などの見える損傷像もあるが、姿形は総じて良好だ。
 展観順に記すと
①解空第一の須菩提
②説法第一の富楼那
③釈迦の子で戒律の模範僧とされる戒行第一の羅睺羅
④論議第一の迦旃延
⑤知恵第一の舎利佛
⑥神業的能力を持つ神通第一の目犍連と並ぶ。僧形で、等身よりも少し小柄だ。
 写真は、大乗仏教の根本教理「空」に精通した須菩提の立像だ。若くして優しい顔立ちは尼僧にも見える。造像当初は美男の十大弟子阿難だった可能性も指摘されている。
 乾漆のソフトな質感を生かして6体の個性を見事に描き分けている。身の構え方、顔の表情、手足の所作、衣の形状などで個々の体格や動静、老若を際立たせているのだ。
 天平六年(734)、同一工房の作とされ、光明皇后が母橘三千代を追善して建てた興福寺西金堂に八部衆などと計28体で安置された。西金堂造営の使用漆を20石9斗1升(律令制 大升換算だと1500㍑ほど)とする記録もあり、天平の乾漆文化を象徴する遺産としても注目できる
 西金堂はたびたび炎上。十大弟子像はその都度、八部衆像とともに救出されたが、明治期に摩訶迦葉、阿那律、優婆離、阿難の4体が寺外へ流出。中には関東大震災で失われた像もある。弟子の名も須菩提同様に、瞑目の羅睺羅像を阿那律だったとする見解があるなど、各像とも当初名かどうかが疑問視されている。
 十大弟子は外人僧だが、この群像は明らかに日本僧だ。間近に拝すと、遊行流浪の聖や文人らへの思いが膨らむ。空也、西行、重源、一遍、円空、芭蕉、そして良寛・・・・
 本連載は今回で終わります。沖真治氏と二人で百回。ご愛読に感謝いたします。
「探訪 古き仏たち」 朝日新聞 2014.03.29.

私 の 想 い

衣を纏うという感じがする。薄く眼を開いて、寒そうな姿の少年である。右手で左袖の袂を托し上げているのだろう。
 寒さに震えていると言えなくもないが、この眼差しは、微かに希望の光が見えて来た期待の眼差しに見えない事もない。むしろ、そうありたい。
 東大寺戒壇院の広目天像の眼差しに勝るとも劣らない眼差しである。若いのにこの眼差しが出来る事は、それだけの器量が在るということである。
 平成21年4月に東京国立博物館で開催の「国宝 阿修羅展」での拝観では、次のように書いている。今回の私のテーマは田相衣がどのようになっているかである。
 田相衣は身体全体を覆っている。
正面は縦に2本
左横後ろに1本
真後ろに1本
右横に1本
大きく黒い縦筋が5本入っている。ぞうり履きである。
 右手で衣の端を握って左腕から垂れ下がる。

須菩提立像画像一覧その1
須菩提立像画像一覧その2
須菩提立像
興福寺に戻る
興福寺画像一覧 興福寺の写真が楽しめます。
興福寺花華一覧 興福寺の花華が楽しめます。
興福寺4(国宝館所蔵仏像)
仏頭(銅造) 仏頭(木製)
阿弥陀如来坐像 釈迦如来坐像 釈迦如来立像
薬師如来坐像 千手観音立像 観音菩薩立像 地蔵菩薩立像
天燈鬼立像 竜燈鬼立像 金剛力士(阿形) 金剛力士(吽形)
梵天立像1 帝釈天立像 梵天立像2
弥勒菩薩半跏像 吉祥天倚像 広目天立像
八部衆像
阿修羅立像 五部浄立像 鳩槃茶立像 緊那羅立像
乾闥婆立像 迦楼羅立像 畢婆迦羅立像 沙羯羅立像
釈迦十大弟子
富楼那立像 羅睺羅立像 目犍連立像
迦栴延立像 舎利仏立像 須菩提立像
板彫り十二神将像
毘羯羅 招杜羅 真達羅 摩虎羅
波夷羅 因達羅 珊底羅 額儞羅
安底羅 迷企羅 伐折羅 宮毘羅
興福寺1(北円堂)
興福寺2(東金堂)
興福寺3(仮金堂)
興福寺4(国宝館)
興福寺5(南円堂)


NO14th-butuzou